悲劇のはじまりは突然に

ここまでも秀次は、一族も子飼いの家臣も少ない秀吉によって、能力以上に抜擢されてきたわけだが、奥州仕置に転戦していた天正19年(1591)のあいだに、秀次の運命はさらに大きく動く。1月22日に叔父で秀吉の懐刀だった秀長が病死し、2年前に淀殿が産んだ秀吉の嫡男の鶴松も、8月5日に急逝した。

藤田恒春氏は「自己を補佐した秀長、後継者として期待した実子の喪失は、何がなんでも補塡ほてんしなければならなかった。身内で残っているのは、秀次のみとなった」と記す(『豊臣秀次』吉川弘文館)。事実、11月20日に居城の清須城に戻った秀次は異例の出世を遂げる。28日に権大納言、12月4日に内大臣に昇進、同25日には関白の勅許を得ている。

そして秀吉は、関白たる秀次を京都の聚楽第に残して、自身は天正20年3月に、朝鮮出兵の前線基地である肥前(佐賀県)名護屋へ出陣。それから文禄2年(1593)春ごろまでは、秀吉と秀次の関係に波風が立った形跡はない。

状況が変わったのはその年の8月3日、淀殿が大坂城で、秀吉の嫡男となる拾(のちの秀頼)を産んでからである。秀吉はその報に狂喜し、名護屋を発って大坂に向かうと、二度と名護屋に戻らなかった。もう跡継ぎは生まれないと思って家督を甥に譲ったら、跡継ぎが生まれたのだから、家督を譲った秀吉と秀次の関係が微妙になるのは、容易に想像がつく。

豊臣秀頼像(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
豊臣秀頼像(画像=養源院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉が甥を見限ったある出来事

とはいえ、九州から戻った秀吉は9月4日、秀次を伏見城に呼んで「先ず日本国を五ツに破り、四分参らるべしと云々(日本国を5つに分割し、うち4つを秀次が治める)」(『言経卿記』)と提案するなど、手を打とうとはした。10月1日には、生後わずか2カ月の拾と秀次の娘の婚約まで決めている(『駒井日記』)。

翌文禄3年(1594)も、秀吉と秀次はたがいに能を舞い合ったり、公卿を従えて吉野花見を挙行したりと、大過なくすごした。ところが、文禄4年(1595)になると、状況が動きはじめる。

年初から秀吉と秀次はたがいを訪問し合っているが、藤田恒春氏は「実子秀頼をえた秀吉が禅譲を働きかけるためではなかったか」と推測し、「秀次が禅譲の意思を示したならば、秀吉自身に汚名を残すこととなった結末を招来することもなかったのである」と結論づける(同書)。

そして、秀吉が期待する申し出を秀次がしなかったから、なのだろうか。公家の山科言継が7月8日の日記に「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ御不和也(秀次と秀吉が7月3日から不和だ)」と書いている。理由のひとつとされるのが、6月20日に医師の曲直瀬まなせ玄朔げんさくが、後陽成天皇よりも秀次の診療を優先したという事案だった。

もっとも、それはきっかけにすぎなかったのだろう。秀次は8日、弁明のために伏見城の秀吉を訪れるが、会うことすら許されていない。そこで、秀次は頭上に束ねた元結を切り、5、6人を従えて高野山に向かっている。