平安時代の貴族たちはどんな暮らしをしていたのか。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員の繁田信一さんは「『源氏物語』に書かれた優美なイメージとは全く異なる。受領国司(地方行政の長)として地方に派遣される貴族のなかには、横領や増税に努めて私腹を肥やし、農民たちから訴えられるケースもあった」という――。

※本稿は、繁田信一『わるい平安貴族』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。

米俵
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公的融資制度を悪用し、私腹を肥やす平安貴族がいた

「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命もとなが殿は、本年を含む三カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法をも行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて三十一カ条にも及びます。これが本状の趣旨です」。

尾張国の郡司や百姓が「尾張国郡司百姓等解」において最初に糾弾しようとした尾張守藤原元命の悪行は、不当な課税と見なされるべきものであった。

[第一条] 公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なものに見えるような公的融資を行っていた。

それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率の利息とを回収するというものであった。こうした公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。

強制的に貸し付け、利息30%で荒稼ぎ…

しかし、これは、借り手の意思を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓たちは、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府からの融資を受けなければならなかったのである。

そして、この融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然、豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられたうえに、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

ただし、そんな理不尽な負担を強いられていた百姓たちにも、多少の救いはあった。すなわち、国府が行う強制的な融資にも、貸しつけの限度額があったのである。

例えば、「尾張国郡司百姓等解」によれば、尾張国府が国内の百姓に貸しつけることのできる元本の総額は、一万二三一〇石ほどに制限されていたらしい。そして、同国の百姓たちが公的融資への利息の名目で徴収される税の総額は、例年、三七〇〇石弱に収まるはずであった。