源頼親が清少納言の実兄の殺害を企図したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。頼親が秦氏元の息子を含む配下の武士たちに命じて清原致信を討たせたのは、それ以前に致信が為頼を殺していたためだったのである。
とすれば、致信が清少納言の身内には不似合いな凄惨な最期を迎えたことも、その当時の貴族社会の人々からすれば、致信の自業自得でしかなかったのかもしれない。
殺人を指示する和泉式部の夫
ただし、源頼親が清原致信を報復の対象としたからといって、必ずしも致信こそが当麻為頼殺害の首謀者であったとは限らない。すなわち、為頼の殺害に致信が深く関わっていたことは疑いないとしても、この殺人は致信によって企図されたものではなかったかもしれないということである。
このように考えるのは、すでに見た『御堂関白記』において藤原頼宗が藤原道長に報じているように、致信が藤原保昌の郎等の一人だったからに他ならない。
ここに注目する藤原保昌は、おそらく、王朝文学の愛好者の間では、かの和泉式部の夫として知られる人物であろう。保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも、丹後守・日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領たちを代表する存在でさえあった。
長和二年(一〇一三)四月十六日の『小右記』に大和守保昌の左馬権頭兼任の人事が発令されたことが見える如く、保昌が寛仁元年(一〇一七)の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあったことは、まったく疑いようがない。したがって、保昌の郎等であったという致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。
また、大和国の住人であった為頼は、当然、保昌が大和守であった頃にも大和国に住んでいたはずである。とすれば、為頼が何らかの事情で保昌にとって邪魔な存在になっていたことも、また、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたことも、かなり容易に想像されよう。
人生を謳歌する殺人者たち
それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝時代の貴族社会に生きる人々にとっては、いかに身近なものであったことか。
ただ、三人の殺人者たちのうちの致信の場合、彼自身もまた、殺人事件の被害者となって生命を落としたのであったが、保昌のために殺人を行ったがゆえに頼親に殺害されることになった致信は、かなり酷たらしい最期を遂げたことが想像されるうえ、まったくの殺され損であった。