平安時代には優れた女流作家たちが活躍した。歴史学者の関幸彦さんは「彼女たちの多くは閉鎖的な宮廷に“知”を伝授する女房だった。当然、后妃たちに“未知”なる男女の世界を伝授する役割も担っていた」という――。
※本稿は、関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
なぜ平安時代は“才女の季節”だったのか
平安後期の王朝期は「女房」を輩出し、“才女の季節”ともいうべき時代を現出させた。紫式部が、清少納言が、そして和泉式部もいた。著名な藤原定家による『百人一首』にも、彼女たちの歌が見えている。そこでは女房たちの群像とも呼び得る世界が見える。「56番」から「62番」の歌だ。
ちなみに紫式部の「めぐり逢ひて〜」で始まる歌は、57番に位置する。意図的ではない配列、単に時間的な流れでの『百人一首』の配列に、偶然が織り成す時代の本質が滲み出ている。彼女たちも、王朝の語感を共有した女房たちであり、一条天皇の後宮に出仕した彼女らの存在と役割は小さくなかった。
ここでの主役、紫式部の『源氏物語』の起筆の時期は、彰子への出仕以前だとしても、その後の10年近い彼女の宮廷生活でのキャリアも、肥しとなっていたはずだ。それでは、そうした“女房”たちを登場させた背景は何であったのか。
天皇に“世間”を知らしめるための知的装置
一つは彼女たちが受領層の娘たちだったことが大きい。要は、教養と知識を授けられる知力の持ち主たることが期待された。狭い世界しか知らない天子のために、話題の豊かさは后妃たることの条件だろう。容姿のみではない心馳せと教養である。それを伝授する役割が女房たちに期待された。“世間”を知らしめるための知的装置こそが、女房の存在だった。
王朝国家の一つの特色は、後にも指摘するように、都鄙の交流が人的に拡大したことだ。律令を原理とした古代の国家は、しばしばトンネル国家に形容される。王朝国家は、その外被が変化する段階にあたる、いわば外被に肉付けがなされる過程のなかで、制度と実態が一体化する段階にあたる。トンネルという骨格に、肉付けがなされる段階、それが王朝の時代だった。