「父娘で百人一首」の清少納言、赤染衛門

清少納言についていえば、父清原元輔(42「契りきなかたみに袖をしぼりつつ……」の作者)が河内や肥後の国司の経験を持ち、2人目の夫は摂津守藤原棟世だった。ついでにいえば、元輔の肥後守就任は高齢でのことで、有名な『枕草子』(「すさまじきもの」)の除目じもくのおりの悲哀の光景には、何度も任にもれた父元輔の原体験が、投影されているとされる。

受領の娘という点では、『百人一首』には登場しないが、『更級日記』の作者の菅原孝標の娘も同じだ。『更級日記』は父の任国の上総から都までの道すがらのことどもが、体験として描写されている。

関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部』(朝日新書)

このほかにも和泉式部も父の大江雅致は越前守、母は越中守平保衡の娘、和泉式部の前夫は和泉守橘道貞、後の夫は兵として名高い丹後守藤原保昌だった。

栄花物語』の作者とされる赤染衛門(59「やすらはで寝なましものをさ夜ふけて……」の作者)の実父平兼盛は越前・駿河守であり、歌人としても名高い(40「忍ぶれど色に出でにけり我が恋は……」の作者)。義父の赤染時用は大隅守だった。

彼女も上東門院彰子に仕え、その後、大江匡衡に嫁し、長保3年(1001)、匡衡の尾張守赴任とともに下向している。在任中の種々の逸話(農民たちの官物かんもつの未納解消のために、一宮真清田社に奉幣献歌して夫の窮地を脱した)などの話も伝えられている。

詩歌の力量が人生を左右した時代

以上、王朝の才女たちの多くは、中下級貴族に属する受領層に出自を有していた。彼女たちの教養も、その環境のなかで育まれた。紫式部自身についていえば、父祖以来、漢詩や和歌に秀作を残した家系に属していたことも大きい。

詩歌の才は官人社会に必須の教養で、その力量如何いかんが人生の浮沈につながる場面も少なくなかった。藤原明衡の『本朝文粋』に見える多くの詩文には、そうした文人貴族たちの力量をうかがわせる作品も見えている。

今昔物語』やその後の『古事談』『十訓抄』などの説話集には、王朝人の猟官運動における悲哀のエピソードが収録されており、王朝人の詩歌に関するエートス(心情)を汲み取ることができる。

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