天皇家ゆかりの妻たちが天皇の妃となる娘を産んだ
詮子は彼女(明子)を厚遇、結婚相手については、相応の人物を考えていたに相違ない。20歳代前半の道長の二人の妻女(宇多源氏の倫子・醍醐源氏の明子)との出会いは、道長の血筋に異なる世界での婚姻圏を用意した。
嫡妻倫子との間に彰子・頼通・教通・姸子・威子・嬉子が、そして明子との間には頼宗・顕信・能信・長家・寛子・尊子が誕生する。
まずは鷹司殿倫子系の子女から眺めておく。長女・彰子の誕生は永延2年(988)、結婚の翌年のことだ。12歳で彰子は一条天皇へ入内する。先に入内した道隆の娘定子は皇后に、そして彰子は中宮とされた(編集部註:紫式部は彰子に仕えた)。寛弘5年(1008)、彰子と一条天皇との間に敦成親王(後一条天皇)が誕生する。さらに敦良親王(後朱雀天皇)が誕生、彰子は二人の天皇の国母となり、道長全盛の世を導くことになる。
次に嫡男の頼通である。世人から「宇治殿」と呼ばれた頼通は、18歳で権中納言となる。寛仁元年(1017)、26歳の若さで父・道長からの譲りを受けて、内大臣として執政を兼ねた。後一条・後朱雀・後冷泉の三代にわたり摂関の地位にあったが、娘の嫄子・寛子両人に皇子誕生がなく、外戚になることができなかった。
20歳の三女を11歳の天皇に嫁がせるなどの強引なやり口
同じく倫子所生の教通は頼通を補佐、その後の後三条天皇との関係にあっては、兄同様に円滑を欠いたとされる。この点は『愚管抄』その他にも逸話が多く残されている。この教通も頼通同様長寿を保ったが、その晩年は兄弟間に確執を残したとされる。
そして次女の姸子である。彼女は東宮居貞親王(三条天皇)の後宮に入り、長和元年(1012)に立后、翌年、禎子内親王(陽明門院)を生んだが、参内ははかばかしくなかったという。父・道長と夫・三条天皇との確執も小さくなかった。「枇杷殿の皇后」と称された姸子は、万寿4年に34歳で他界した。同じ年に父道長も世を去っている。
三女は後一条天皇中宮の威子である。11歳の後一条天皇に入内した威子は、当時20歳と年齢の差もあった。『栄花物語』にはその不釣り合いな結婚を“めでたさ”の象徴のように語っているが、何とも道長の強引な意図は隠しきれない。その点では長女の彰子も似たようなもので、一条天皇に入内したのは12歳の時のことだった。父の“政治”に翻弄された娘たちという面もあった。