選手時代の報酬は月10万円で極貧、今は…
夢破れてもタフに動き続ける。停滞せずセカンドキャリア、いやサードキャリアの階段を上り続ける。何が谷田さんを突き動かすのか。
「以前、JX-ENEOSを辞めた後は大きな組織で働いていません。いろんな能力を持っている人、才能のある人と仕事をしてみたい。そんな気持ちがありました。ENEOSを辞める時は勇気を振り絞りました。日本を代表する大企業ですから悩みましたが、最後にはこう考えを転換したんです。『僕の人生は当初、思い描いていた大手で長く働くものではなくて、何年かごとにキャリアを重ねていくことになっていくだろう』。それは逆にチャレンジングで面白いなと思えたんです。そうやって実績を積み重ねていこうと」
アウモで働く傍ら、自身でも会社を経営している。sandpickというウェブサイトや動画などを手掛けるクリエイティブ制作会社だ。徳島時代に街の人々と行き来するうちに、仕事を請け負うようになって起業している。今は徳島と東京にオフィスがあり、全国から問い合わせもあるそうだ。
それに加えて、野球の「さわかみ関西独立リーグ」の専務理事になって運営に携わっている。「関西独立リーグ」はまだ小さなリーグで、上位組織の一般社団法人日本独立リーグ野球機構への参入を目指して大局的な陣頭指揮を執っている。
キャリアアップすれば自身の評価、収入も上がっていく。
選手時代の報酬は月に10万円で極貧だったが、徳島の球団代表当時で年収は大学同期に少し劣る程度にまで引き上った。そして今は慶應卒の同年齢の一流ビジネスマンと同等の年収があるのではないか、という。
「今後の目標? 今はいろんな経験をさせてもらって、アウモの数字を伸ばすことに全力集中です。そこから開けてくるものはあるだろうから、その先の目標を見つけたいです」
行きつくところは自身でITの会社を作るのではないか。そんな将来を思わせる。
最終的にはグリーのような会社を作りたいのではないですか、と聞いてみた。
「そうですね、こういう会社を作れたらいいですけど、自分が何に適してるのか、感じながらやってます。人生ずっと模索です。事業を立ち上げるのがいいのか、既存事業を伸ばしていくのが向いているのか。先頭に立つのがいいのか、上の人をサポートするのがいいのか。組織の中で得意な立ち位置がたぶんあると思うんです。刺激と経験をもらいつつ、自分の適性を見極めたい」
23年夏、母校の慶応義塾高校が甲子園で優勝を果たした。決勝など2試合を現地で観戦したという。自分もこの学校の部活にいたんだ、と幸せになったという。ただ、野球をプレーすることへの未練はない。「野球の経験が生きていること? 体力ぐらいですかね」と笑う。
「徳島の後輩選手たちには『将来、社会人として働くとき、野球が生きることなんて何もないよ。一から勉強だから』と言ってました。(生きていくのは)大変なのは当たり前だよって(笑)」
困難な状況に陥ってもめげない。野球をやっていたからこそ学んだ胆力かもしれない。どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
筆者は約5年前、谷田さんがショーケースに入社が決まったときに六本木の喫茶店で初めて会った。IT企業に入社したのにパソコンに不慣れ、と苦笑いしていた。スーツ姿は初々しかったが背筋も縮こまっていて、不安を感じているな、という印象だった。
それから4年経って、そのうち3年は四国でもまれた。2度目の取材で訪れると同じ六本木の芋洗坂を下りきったオフィスビルに通された。Macbook Airを抱えたTシャツ姿には風格があって、そこから自信が伝わってきた。
「深く考えずに、やってみたいと思ったことをやってます」
とにかく踏み出してみる。至極単純な欲求が推進力になっている。