26歳で「野球で食っていく」ことを断念して選んだ道

大学を卒業して2年間、JX-ENEOSで社会人野球を経験しプロへの道を探る。しかしレギュラーに定着できず、ここでも指名は見送られた。厳しいなという状況は自分でも認識できていたという。

次の視線の先はアメリカだった。メジャー関係者と親交のある後輩を通してプレーの映像を送ると、キャンプに参加してテストを受けてみないか、という反応があった。

迷惑をかけることになるためENEOSを辞めて退路を断った。メジャー6球団のテストを受けたがうまくいかなかった。これで3回目のプロ挑戦を逃したことになる。

滞在期間、懸案となったのが経費だが、後輩の助言もあってクラウドファンディングで240万円を集めることができた。滞在費、通訳への謝礼、返礼品や報告会などをそれで賄う手腕を発揮できたが、プロへの道は遠かった。

最高峰の舞台で野球を、という自分の夢をどうするか。いっそ諦めるのか。熟慮を重ね、帰国して独立リーグから挑戦すると決めた。入団したのが徳島だった。

徳島インディゴソックス時代の谷田成吾さん
写真提供=谷田成吾

18年はプロへの挑戦ラスト年。「やりたいように自由にやらせてもらいました」。しかし、ついに指名されなかった。4回目の指名漏れ。26歳にして、「野球で食っていく」ことを断念した。

当然失意の底に落ちるところだが、ここから新たな人生が動き出すから面白い。

谷田さんには底知れぬバイタリティがあったのだ。最後のドラフトで自分の名前が呼ばれなかった直後から、切り換えよく就職活動を始めたという。こういうときに強いのが高校、大学の先輩後輩のつながりだ。有名企業からの誘いもあったが、慶應義塾高校野球部の先輩が当時、役員をしていた会社に入社する。ショーケース・ティービー(現ショーケース東京・港区)というwebマーケティングの会社だ。

「それまで一般的な社会人というものを経験していないわけです。ショーケースでは企業人としての最初の基礎を学びました」

入社早々、先輩役員からかけてもらった言葉に谷田さんは感謝している。

<「〇×社の谷田です」ではなくて、「谷田成吾です」と自分の名前で生きていってもらいたい。将来は独立してもいいし、会社にいてもどっちでもいい。プロ野球ではなくて、ビジネスのプロとして名を上げてほしい>

「最初から『独立していいよ』と言って、採用してくれる人はいないと思うんです。(その恩に報いるためにも)実力をつけてステップアップしていくぞ、と思いました」