美空ひばりは、なぜ「国民的歌手」となったのか。社会学者の太田省一さんは「終戦直後の時代に活躍したことが大きい。子供ながら大人の歌を歌う彼女の姿に当時の日本人は自らの姿を重ねた。戦後復興のシンボルといえる存在だった」という――。

※本稿は、太田省一『子役のテレビ史』(星海社新書)の序章の一部を再編集したものです。

美空ひばり
美空ひばり(写真=映画『悲しき口笛』家城巳代治、松竹株式会社より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「美空ひばり」という名に込められた思い

美空ひばりは、1937年横浜市磯子区生まれ。本名は加藤和枝。実家は魚屋を営んでいた。歌や芝居が好きだった両親のもとで、ひばりは幼いころから抜群の歌の才能を発揮する。父親が出征するときに流行歌「九段の母」を歌ったところその歌声が評判になり、しばしば出征兵士の壮行会などに呼ばれて歌うようになった(美空ひばり『ひばり自伝』、19頁)。

そんなひばりの歌の才能に誰よりも惚れ込んだのが、母親の喜美枝だった。

後にひばりとの関係を「一卵性母娘」とも称された喜美枝は、戦争が終わるとひばり専属の楽団を結成する。彼女がその楽団につけた名前が「美空楽団」だった。

喜美枝は詩を書くことを好み、そこでよく「空」や「星」をモチーフにしていた。そこで娘に「空のように広々とした気持ちで、どこまでも行って欲しい」という思いで「美空和枝」という芸名をつけた。

こうして、ひばりは自前の楽団とともに活動を始めることになった。喜美枝はひばりのそばにずっと付き添うだけでなく、時には興行を仕切るプロデューサーでもあった。

1947年10月には日劇小劇場の伴淳三郎のショーに出演。このとき、芸名も「美空和枝」から「美空ひばり」になった。命名したのは、やはり母親の喜美枝である。

ひばりが5月生まれで、さわやかな気候に天高く舞い上がってどこまでもさえずり続けるひばりのイメージが「美空」にもぴったりというのが、その理由であった(同書、64頁。命名者については諸説ある)。

11歳で日劇&銀幕デビュー

ただ、道のりは決して順調だったわけではなく、芸能界の下積みの大変さも味わった。また地方巡業の際、移動のバスの転覆事故に遭い、ひばりが九死に一生を得たこともあった。

ところがそうしたことから歌手への道をあきらめかけていた1948年5月、横浜国際劇場という大劇場からの出演オファーが舞い込む。

人気歌手・勝太郎の舞台に出る子役の仕事だったが、歌を歌う場面もあった。またこのときに、師とも言える存在に後々なるミュージシャン・川田晴久と出会っている。

そして1949年1月には、当時人気絶頂の歌手・灰田勝彦が主演するレビューで、日劇の舞台を踏むことになる。

そのステージなどで子どもながらに笠置シヅ子の「東京ブギウギ」などを歌う姿が評判を呼び、ひばりは映画にも出演するようになった。