Jリーグは、各スタジアムに自動体外式除細動装置(AED)を常備しているほか、AEDの使い方を学ぶイベントを行っている。チェアマンを4期8年務めた村井満さんは、通勤の際、リュックにかならずAEDを入れていたという。なぜそこまでやるのか、ジャーナリストの大西康之さんが聞いた――。(第15回)

練習中に突然倒れ、帰らぬ人となった

――今日はかつて日本代表、横浜F・マリノスのディフェンダーとして日本のサッカーファンに愛され、34歳の若さで亡くなった松田直樹選手のお話を伺います。

サッカーW杯日韓大会決勝トーナメントのトルコ戦で攻め上がる日本代表DF松田直樹
サッカーW杯日韓大会決勝トーナメントのトルコ戦で攻め上がる日本代表DF松田直樹(2002年6月18日、宮城スタジアム)(写真=時事通信フォト)

【村井】前橋育英高校でプレーしていた頃からU-16の日本代表に選ばれ、18歳で横浜Mに入団。マリノスの象徴のような選手でした。とにかく熱い男で、審判の判定にも食ってかかる。フル代表ではフィリップ・トルシエ監督やジーコ監督とも衝突し、周りをヒヤヒヤさせましたが、サポーターには誰よりも愛された。

「永久にマリノス」と言っていましたが、出番が少なくなると「マジでサッカーが好きなんで、サッカーを続けさせてください」とサポーターに頭を下げ、2011年にJFL(日本フットボールリーグ)の松本山雅に移りました。

――事故が起きたのは移籍から半年ほどたった頃でしたね。

【村井】松田選手が急性心筋梗塞で倒れたのは2011年の8月2日。亡くなったのは8月4日です。松本市のグラウンドで練習中に倒れて救急搬送されました。実は私の誕生日が8月2日で、誕生日が来るたびに松田選手のことを思い出します。

村井満さん
撮影=奥谷仁

倒れた場所には「AED」がなかった

【村井】松田選手のお姉さんの真紀さんは看護師で、一報を受けた時は「何が起きたか分からなかった」と言っていますが、救急車が来るまで、その場にいた看護師の方が胸骨圧迫という適切な処置をしてくれたため心拍が残り、2日間は命をつなぐことができた。そのことについては「とても感謝している」とおっしゃっていました。

真紀さんはNGOで「命つなぐアクション」というAED普及のための活動をされていて、イベントで日産スタジアムを使ってもらったりしています。

【連載】「Jの金言」はこちら
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――松田選手が倒れた場所には自動体外式除細動装置(AED)がなかったと聞きます。

【村井】グラウンドに常備されていたAEDがたまたま貸し出されていたそうです。当時、Jリーグのクラブは試合や練習の会場にAEDを常備していましたが、JFLはまだそうなっていませんでした。日本では年間に約6万人が心臓が原因の突然死に見舞われていますが、その場にAEDがあればその中のかなりの部分の人は救うことができます。松田選手の死は、この問題を全国に提起することになりました。

AED普及のきっかけになったのは2002年の高円宮憲仁親王の薨去こうきょです。カナダ大使館でスカッシュの練習をされている際に心不全で倒れられ、慶應義塾大学病院に搬送されましたが蘇生措置のかいなく、47歳の若さで薨去されました。その場でAEDを使っていれば助かったとの指摘があり、2004年には医療資格を持たない一般人によるAEDの使用が認められる契機となりました。