田中角栄元首相は、かつて政界最強の「田中軍団」を率い、絶大な政治力を誇示した。しかしロッキード事件のあとに脳梗塞で倒れると、派閥は分裂。急速に政治力を失った。原因はどこにあったのか。池上彰さんと佐藤優さんの共著『組織で生き延びる45の秘策』(中央公論新社)より一部を紹介しよう――。(第3回)
田中角栄(1918~1993)
1972年、内閣総理大臣就任。就任直後に訪中し、「日中共同声明」を発表。74年、月刊誌が田中ファミリー企業の「錬金術」を暴くと一気に逆風が吹き、辞任。辞任後、76年に米・ロッキードの機種選定をめぐって収賄罪で起訴され、83年に東京地裁で有罪判決を受けた。

能力が劣っていても、忠誠心のある人間を重用した

【池上】田中角栄が政治家としての絶頂にあった1970年代というのは、ポスト佐藤栄作をめぐって「三角大福」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫)が激しく競い合った時代でもありました。

田中角栄
(写真=内閣官房内閣広報室/首相官邸ホームページ/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

【佐藤】78年暮れの自民党総裁選では、優勢を伝えられていた福田を角栄の「田中軍団」が蹴散らして、大平を勝たせた。敗れた福田は「天の声にも変な声がたまにはある」という名言を残しました。日本の歴史になぞらえれば、あの頃は戦国時代です。

【池上】角栄のすごいところは、ロッキード事件で逮捕されて自民党離党を余儀なくされた後も、田中派を拡大させつつしっかり掌握して、政界に絶大な影響力を行使し続けたことです。

【佐藤】激しい派閥抗争の中で角栄が見定めていたのは、自らへの忠誠心でした。多少能力が劣っていても、忠誠心のある人間を重用したわけです。

【池上】能力があって忠誠心の薄い人間には、いつ寝首をかかれるか分かりませんから。だから角栄は、後継者も育てようとはしませんでしたね。

角栄は後継者を育てられなかった

【佐藤】育てられなかったというのが、より近いのではないでしょうか。佐藤栄作が長期政権を築けたのは、福田と田中を競わせて自分に刃が向かないようにしながら、時期が来れば禅譲しようという余裕があったからです。派閥抗争華やかなりし時代には、それはなかなか難しい。まあ、佐藤栄作も、思惑が外れて田中政権の誕生を許し、戦国の世を呼び込んでしまったのですが。

【池上】しかし、さしもの鉄の団結を誇った田中軍団も、時を経るにつれ内部での角栄の求心力低下は否めませんでした。1985年には、竹下登を中心とする派中派の「創政会」ができ、金丸信、橋本龍太郎、小沢一郎といった面々が参加しました。それを核に旗揚げしたのが、竹下「経世会」です。ちなみに角栄自身は、創政会発足直後に脳梗塞で倒れ、行動障害などが残る状態になっていました。

【佐藤】ただ、経世会も禅譲で生まれたものではないから、やっぱり「戦国文化」なんですよ。抗争に次ぐ抗争の末に、小沢、反小沢に分裂してしまいました。