※本稿は、マデリン・チャップマン『ニュージーランド アーダーン首相 世界を動かす共感力』(集英社インターナショナル)の一部を再編集したものです。
首相よりも大臣がやりたかった
最近、政治解説者たちが議論していたことがある。アーダーンの天職は政治家なのか、それとも民間企業や、チャリティの分野での仕事なのか、という話だ。そして多くの人がこういった。アーダーンはきっとニュージーランドの政界を引退したあとは国連で働くだろう。
国連のような場でこそ、アーダーンは自分のスキルを存分に発揮することができる。国民の批判の目にさらされることもないし、一国を率いる――しかも連立政権という状況で――という重圧もない。
アーダーン本人は、首相よりも一省庁の大臣でありたいといった。そのほうが批判の目や人間関係のしがらみも少ないから、というのが理由だ。とはいえ、あのような不安定な連立政権の運営をほかのだれがやったとしても、アーダーンの半分もうまくできなかっただろう。
アーダーンの手本となった元首相
やりたくない仕事を任されたものの、能力を発揮している――そんなふうにみることもできるが、そうではなく、単に首相になるタイミングが早かったということかもしれない。
1972年、労働党のノーマン・カークが29代ニュージーランド首相になった。カークは弁舌に長けた政治家で、社会問題や海外政策についての考えを情熱をこめて話したものだ。1973年にアパルトヘイト政策をとっていた南アフリカのラグビーチームのニュージーランド訪問を拒否したことと、ベトナムからニュージーランド軍を撤退させたことで知られる政治家でもある。しかしその一方で、人間関係の考えかたがあまりに保守的であると、若い党員たちから批判されていた。
LGBTQ IA+コミュニティや女性やマオリの権利をもっと認めるべきだ、と働きかけられたが、カークは応じなかった。それどころか、南太平洋の島から移民してきた人々の家を早朝に訪問しては不法長期滞在者を摘発するという、“ドーン・レイズ(夜明けの奇襲)”として知られるやりかたでマイノリティを抑圧した。
しかし、スピーチや日頃のちょっとした言動などを通して、カークはニュージーランドがその後変化していくための準備をしてくれたともいえる。1974年にはじめて国の休日になったワイタンギ・デーの記念式典で、カークは、ニュージーランドは二文化が共存する国であることをだれもが認めるべきだと語り、新聞の一面にはカークとマオリの少年が手に手をとって歩く写真が掲載された。
象徴的な写真やスピーチはたしかに重要だったが、実際に政府がとったアクションは、それに見合わない小さなものだった。1980年代中頃、カークの死後10年たってようやく、カーク政権の若いメンバーだった政治家たちが第一線に立つようになり、大きな変化をもたらすことができた。
アーダーンはよくカークのことを、自分にとってお手本の政治家のひとりだといっている。