東京を脱出しようとする人が北への鉄道にあふれた

東京から西へ向かっては鉄道も通信も多くが機能を停止したが、北へと向かう鉄路は動いていたのだ。

常磐線は9月1日のうちに金町以北が単線で復旧し、東北線も川口以北が単線で復旧した。3日には隅田川橋梁の応急修理を終えた常磐線が日暮里まで開通し、4日には東北線の荒川橋梁が単線で応急復旧され、赤羽、田端を経て日暮里まで運転された。

4日には避難民の無賃乗車が始まり、とにかく東京を脱出しようとする人が北へと向かう鉄道にあふれた。そういう人たちの体験談を集めることで、河北新報の記事は成り立っていた。河北新報が特に軽率だったから流言を多く報道したとは思えない。他の地域の新聞ではできなかった情報を収集できる環境にあったのだ。

さらに、大きいのは仙台鉄道局の存在だ。首都圏の鉄道復旧へ向けて、仙台鉄道局は資材や人員を真っ先に送り込んだ。列車の運行が可能だったからで、他の地域の鉄道局にはできないことだった。

「列車内は戦争といっていい状態だった」

国鉄の業務日誌によれば、仙台鉄道局は早くも2日に、鉄道省や東京鉄道局との間の連絡や作業援助の目的で運輸、運転、工務、電気、経理各課員一名で移動出張班を編成し出発させ、大宮駅構内に仙台鉄道局派出所を設置している。この日誌を見る限り、震災直後に独自の派出所を設けた鉄道局は仙台だけだ。そこからの情報は鉄道電話を通して仙台へともたらされ、それを河北新報が次々と記事にしていったと考えられる。

手帳にメモを取る男性の手元
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5日の紙面には「仙台鉄道局大宮派出員島村書記より鉄道職員の実見談として電話報告してきた」という記事が見える。鉄道電話を頼りにしたのは全国の新聞で共通だったとしても、仙台の河北新報だけは独自の情報源を持っていたといえるだろう。

東京から押し寄せた避難民が東京の空気を運んできたことも考えなくてはいけない。同じく動いていた鉄道でも碓氷峠より西の信越線では雰囲気が相当に違っていたことを当時の新聞は伝えていた。それに対して、東北線や常磐線の沿線は殺気だった状態で、武装した自警団が列車内や駅を動き回っていた。戦争といっていい状態だったことを避難民の証言は伝えている。

東京一帯の被災地の空気がそのまま北へと流れ込んでいたのだ。その環境の中で最も情報を集めやすい立場にいたのが河北新報だった。河北新報の記事が震災直後に際立って多かった、それが理由だったと思えてならない。