約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
曹操の騎馬軍団に猛烈な追撃を受けた「長阪の戦い」で、「俺を追い払わん限り橋は渡らせん」と長阪橋の前に仁王立ちして魏の軍勢を蹴散らしたのが、義兄弟の末弟、張飛益徳である。
これは『正史』の『蜀書・張飛伝』にもある出来事。数々の武勇伝を誇る剛の者だが、一方で劉備から徐州の留守を預かったときに、大酒を飲んで酔っ払い、呂布に城を乗っ取られる失態を演じるなど、失敗談にも事欠かない。
気性が荒かったといわれる。しかし、ただ荒っぽいだけの男が、「死ぬときは同じ」と誓いを立てたぐらいで、生涯、劉備との主従関係を貫いていられるだろうか。張飛自身に国家観を持ちうるだけの才覚があったかどうかはわからない。しかし、劉備の掲げる思想や国家観に賭けることはできたのだろう。
前述のように、劉備と関羽と張飛は3人で1人の人格を分け合うような関係だったと私は考えている。劉備はケンカは弱いけれど知恵が働くし、立ち回るのがうまくて情にもろい。関羽は義を重んじ、寡黙にチームを牽引する小兄貴。張飛は粗暴で誤解されるのが上手な汚れ役――。そういった役回りのようなものがあったのではないか。
劉備の“徳”に傷がつくようなことがあれば、関羽は張飛に「おまえがやったことにしろ」と促す。城を乗っ取られ、死んで詫びると泣く張飛を、劉備が「よしよし」と許す場面も、3人で話し合って演じたようにすら思える。
当然、兵を鍛え上げるような嫌われ仕事も張飛の役回りだった。張飛の鍛え方は「死の調練」と呼ばれるほど厳しかった。実戦さながらに行われ、ときおり死者も出た。張飛がほとんどサディストのような調練を施したのは、戦に勝つための精兵を求めていただけではない。徹底的にしごかれた兵士は、「いつかあいつを殺してやる」と思いながら戦場に飛び込み、頭ではなく体が覚えていた動きで死地を脱する。そこで初めて自分たちが生き残るための調練だったことに気付く。
平気で兵を打ち殺す一方で、兵を失うことを一番悲しむのが張飛だった。