約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。

青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を操る豪傑にして、文武に秀でた高潔なる武人、関羽雲長。弟分の張飛とともに劉備と義兄弟の契りを結ぶ「桃園(とうえん)の契り」は、『演義』や吉川『三国志』の冒頭を飾る名場面だ。しかし、これは『演義』のオリジナルで、『正史』には記述がない。

<strong>関羽</strong>●生年不詳。字は雲長。張飛とともに劉備の挙兵以来の部下。赤壁の戦いの後、劉備が益州に入ると荊州を任されるが、孫権の裏切りにあう。死後、首は曹操に送られたが、丁寧に葬られたという。なお中国では商売の神として知られる。
関羽●生年不詳。字は雲長。張飛とともに劉備の挙兵以来の部下。赤壁の戦いの後、劉備が益州に入ると荊州を任されるが、孫権の裏切りにあう。死後、首は曹操に送られたが、丁寧に葬られたという。なお中国では商売の神として知られる。

桃園で一緒に酒を飲んだくらいのことはあったかもしれない。しかし、最初に会ったその日に中山靖王の末裔と聞いて、「生まれた日は違っても、死ぬ日は一緒」と関羽ほどの男がやすやすと誓いを立てるとは思えない。行動を共にしながら、互いの器量を計り合うようなことがあったはずだ。信用できるか、好きになれるか、命を預けられるか。そのうちに戦友の関係が兄弟のような間柄へと変わっていったのではないか。

それにしても24年もの流浪の間、よくぞ関羽も張飛も劉備を見捨てなかったものだ。「1人で1万人の敵を相手にできる」と言われた男たちである。魏や呉に行けば厚く遇されたことだろう。

チャンスはあった。曹操と袁紹が戦った「官渡の戦い」の直前のことだ。曹操の急襲で潰走した際、劉備の妻子を守るため関羽は曹操に降伏する。曹操は配下となることを強く求めたが、関羽は「一緒に死のうと誓った仲。あの方は裏切れない」と断る。そして官渡の戦いに従軍して武功を上げた関羽は劉備の下へ直ちに帰還した。

<strong>劉備</strong>●161年生まれ。字は玄徳。黄巾の乱では関羽・張飛らと義勇軍を結成。鎮圧に功績を挙げ一旦は公職に就くが、やがて出奔。その後は各地を転戦し、流浪生活は24年も続いた。享年63。後継は嫡子の劉禅とし、補佐を諸葛亮に託した。
劉備●161年生まれ。字は玄徳。黄巾の乱では関羽・張飛らと義勇軍を結成。鎮圧に功績を挙げ一旦は公職に就くが、やがて出奔。その後は各地を転戦し、流浪生活は24年も続いた。享年63。後継は嫡子の劉禅とし、補佐を諸葛亮に託した。

関羽や張飛が劉備とともにあることを選び続けたのはなぜか。劉備がすべての面で彼らより勝っていたとは、とても思えない。むしろ逆だろう。2人は劉備に弱くて情けないところがあると知っていた。だから行動を共にしたのではないだろうか。うでっぷしも決断力もないのに尊皇の志ばかり高い劉備を、自分たちが補ってやらなければ……と考えたのではないか。

劉備、関羽、張飛の関係は、3人で1人、1つの人格を3人で分け合って互いを補い合う分身のような間柄だったと私は推測する。三位一体で乱世をのし上がろうとしたのだ。

悲劇は蜀が大きくなるにつれて、三位一体を続けられなくなったことだ。益州の経営に諸葛亮が必要である以上、荊州を任せられるのは関羽しかいなかった。関羽は荊州の制圧を任せられたが、孫権の諜略によって部下に裏切られ、「死ぬ日は一緒」と誓った劉備より4年早く悲運の最期を遂げる。分身を失って大きくバランスを崩した劉備の心は、「天下三分」の実現より義弟の仇討ちに向かうことになる。

北方謙三●1947年、佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。81年『弔鐘はるかなり』でデビュー。83年『眠りなき夜』で吉川英治文学新人賞、85年『渇きの街』で日本推理作家協会賞、91年『破軍の星』で柴田錬三郎賞、2004年『楊家将』で吉川英治文学賞、06年『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞を受賞。2000年より直木35賞の選考委員を務める。全13巻の『三国志』(角川春樹事務所)は累計450万部の大ベストセラー。また現在、『水滸伝』の続編『楊令伝』を小説すばるに連載中で、最新刊は第9巻。
(構成=小川 剛 撮影=大杉和広)