約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
中国は北と南では文化がまるで違う。これは中国文化が黄河(こうが)と長江(ちょうこう)という2つの大河の流域文化として成立してきたためだ。北と南では食文化も異なる。降水量の少ない北では麦が主食。温暖で湿地の多い南では早くから水稲栽培が盛んで、米を主食にしてきた。また「南船北馬(なんせんほくば)」といわれるように、北では馬の育て方や使い方が、南では船の建造法や川での航海術が発展した。戦時の兵站や得意な戦法も異なっただろう。
劉備や曹操ら有力諸侯がひしめく中原に対し、長江から南にある江南の地を治めたのが呉の孫権仲謀である。
呉の礎(いしずえ)を築いたのは父親の孫堅。黄巾の乱や涼州(りょうしゅう)の反乱の討伐で功績を挙げて荊州長沙郡の太守となり、反董卓の連合軍に加わって名を挙げた。天下への野心を抱いた孫堅だったが、荊州の劉表との戦いで戦死。後を継いだ長子の孫策は父親譲りの軍事的才能を発揮し、幼馴染の周瑜と組んで江南の覇権をもくろんだ。ところが孫策も25歳の若さで謎の死を遂げてしまう。
孫策は息を引き取る間際、7歳年下の弟・孫権を後継者に指名する。孫策は弟にこう遺言した。
「天下の群雄たちと雌雄を決することではおまえはこの俺に及ばない。しかし、江東を守るのはおまえのほうが上手だ」
戦上手ではないという孫策の見方は当たっていたし、当人も自覚していた。戦のほとんどを周瑜らの武将に任せて、自らは兄の遺言通り、内政主義を強めていく。天下の覇権よりも呉一国の充実を優先するスターリニストだった。結果、孫権の代になって江南は安定し、以前より国力を増した。三国志の英傑の中にあって魅力に乏しい印象だが、名君だったことは間違いない。