約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
北方謙三●1947年、佐賀県生まれ。中央大学法学部卒。81年『弔鐘はるかなり』でデビュー。83年『眠りなき夜』で吉川英治文学新人賞、85年『渇きの街』で日本推理作家協会賞、91年『破軍の星』で柴田錬三郎賞、2004年『楊家将』で吉川英治文学賞、06年『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞を受賞。2000年より直木35賞の選考委員を務める。全13巻の『三国志』(角川春樹事務所)は累計450万部の大ベストセラー。また現在、『水滸伝』の続編『楊令伝』を小説すばるに連載中で、最新刊は第9巻。
<strong>劉備</strong>●161年生まれ。字は玄徳。黄巾の乱では関羽・張飛らと義勇軍を結成。鎮圧に功績を挙げ一旦は公職に就くが、やがて出奔。その後は各地を転戦し、流浪生活は24年も続いた。享年63。後継は嫡子の劉禅とし、補佐を諸葛亮に託した。
劉備●161年生まれ。字は玄徳。黄巾の乱では関羽・張飛らと義勇軍を結成。鎮圧に功績を挙げ一旦は公職に就くが、やがて出奔。その後は各地を転戦し、流浪生活は24年も続いた。享年63。後継は嫡子の劉禅とし、補佐を諸葛亮に託した。

日本の三国志ファンになじみ深い吉川英治の『三国志』で描かれる劉備玄徳は徹底して「徳の将軍」である。

貧家の生まれで筵(むしろ)を織って生計を立てていたが、前漢の皇帝・景帝の子、中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝の末裔という漢王朝の血筋にある人物で、漢(かん)帝室の再興を志す。その尊皇の志をよしとして、関羽、張飛や諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)をはじめとする人材が配下となり、長き流浪の末に「蜀(しょく)」という国を打ち立て帝位に上る。正式な国名を「蜀漢(しょくかん)」と称して、正当な王朝は漢であることを示して「徳の将軍」の世評をさらに高める――。こうした描かれ方は、漢の帝室への尊崇の念を持たず、自らの覇道(はどう)を驀進し、「乱世(らんせ)の奸雄(かんゆう)」と形容された曹操とはまったく対照的だ。

筵売りから一国の王に成り上がるまで徹頭徹尾、人格者という劉備の人物造形は、吉川『三国志』をはじめ、数多の日本の三国志小説の下敷きになった『三国志演義』に由来している。『三国志演義』は三国時代にまつわる説話や講談をもとに明代に書かれた中国の歴史小説で、中国民衆の人気が高い劉備や諸葛亮に肩入れした記述が多い。

<strong>曹操</strong>●155年生まれ。字は孟徳。後漢に仕え黄巾の乱には騎都尉として参戦。董卓の死後は袁紹を破って河北・中原の覇権を握った。江南の平定を目指したが、赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に敗れ、天下統一は果たせなかった。享年66。
曹操●155年生まれ。字は孟徳。後漢に仕え黄巾の乱には騎都尉として参戦。董卓の死後は袁紹を破って河北・中原の覇権を握った。江南の平定を目指したが、赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に敗れ、天下統一は果たせなかった。享年66。

さらに『演義』の下敷きになったのが、三国時代のオフィシャルな歴史書である『正史(せいし)三国志』だ。中国では王朝の交替があったときに、後からできた王朝の文責で前の王朝の歴史をまとめた「新王朝公認」の歴史書が作られる。それが『正史』である。『正史三国志』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)はもともと蜀に仕えた文官で、蜀の滅亡後に長く浪人暮らしをしていたところを、魏(ぎ)を廃して成立した晋王朝に拾われた人物だった。ゆえに『正史』では歴史的正当性を魏(=曹操)の側に置きながらも、蜀への共感が目立たないように織り込まれている。つまり、「徳の将軍」という劉備の人物造形の源泉はもともとの『正史』にあるのだ。

しかし、『正史』をよく読んでみると、劉備が「徳の将軍」でいられたのは荊州(けいしゅう)時代までだとわかる。劉備は、劉璋(りゅうしょう)の求めに応じて「五斗米道(ごとべいどう)」を征伐する名目で益州(えきしゅう)に援軍を送るが、益州の奪取が可能とみるや豹変。劉璋を追い出してしまう。そこから劉備が益州で行ったことは、奪い尽くすことだけである。軍隊から文官、人民に至るまですべてを自軍に併合。3万にすぎなかった劉備軍は一気に15万人に膨れ上がった。それだけの規模の兵力とその家族を養わなければならない立場となった劉備にとって、魏や呉と伍してゆく以上に、国家の財政運営上、版図の拡大と収奪が必要だったのだ。