約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
日本の三国志ファンになじみ深い吉川英治の『三国志』で描かれる劉備玄徳は徹底して「徳の将軍」である。
貧家の生まれで筵(むしろ)を織って生計を立てていたが、前漢の皇帝・景帝の子、中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝の末裔という漢王朝の血筋にある人物で、漢(かん)帝室の再興を志す。その尊皇の志をよしとして、関羽、張飛や諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)をはじめとする人材が配下となり、長き流浪の末に「蜀(しょく)」という国を打ち立て帝位に上る。正式な国名を「蜀漢(しょくかん)」と称して、正当な王朝は漢であることを示して「徳の将軍」の世評をさらに高める――。こうした描かれ方は、漢の帝室への尊崇の念を持たず、自らの覇道(はどう)を驀進し、「乱世(らんせ)の奸雄(かんゆう)」と形容された曹操とはまったく対照的だ。
筵売りから一国の王に成り上がるまで徹頭徹尾、人格者という劉備の人物造形は、吉川『三国志』をはじめ、数多の日本の三国志小説の下敷きになった『三国志演義』に由来している。『三国志演義』は三国時代にまつわる説話や講談をもとに明代に書かれた中国の歴史小説で、中国民衆の人気が高い劉備や諸葛亮に肩入れした記述が多い。
さらに『演義』の下敷きになったのが、三国時代のオフィシャルな歴史書である『正史(せいし)三国志』だ。中国では王朝の交替があったときに、後からできた王朝の文責で前の王朝の歴史をまとめた「新王朝公認」の歴史書が作られる。それが『正史』である。『正史三国志』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)はもともと蜀に仕えた文官で、蜀の滅亡後に長く浪人暮らしをしていたところを、魏(ぎ)を廃して成立した晋王朝に拾われた人物だった。ゆえに『正史』では歴史的正当性を魏(=曹操)の側に置きながらも、蜀への共感が目立たないように織り込まれている。つまり、「徳の将軍」という劉備の人物造形の源泉はもともとの『正史』にあるのだ。
しかし、『正史』をよく読んでみると、劉備が「徳の将軍」でいられたのは荊州(けいしゅう)時代までだとわかる。劉備は、劉璋(りゅうしょう)の求めに応じて「五斗米道(ごとべいどう)」を征伐する名目で益州(えきしゅう)に援軍を送るが、益州の奪取が可能とみるや豹変。劉璋を追い出してしまう。そこから劉備が益州で行ったことは、奪い尽くすことだけである。軍隊から文官、人民に至るまですべてを自軍に併合。3万にすぎなかった劉備軍は一気に15万人に膨れ上がった。それだけの規模の兵力とその家族を養わなければならない立場となった劉備にとって、魏や呉と伍してゆく以上に、国家の財政運営上、版図の拡大と収奪が必要だったのだ。