約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。
「乱世の奸雄」は『正史三国志』において陳寿が許子将(きょししょう)という人物の言葉を借りて曹操孟徳(もうとく)を評した言葉だ。本当は「治世の能臣(ちせいののうしん)」という対になる言葉があるが、「乱世の奸雄」ばかりが独り歩きして、悪役のイメージを決定付けた。
しかし単に奸智に長けていただけで、群雄割拠の三国時代に最大の版図を築けようか。私は曹操こそ、三国志の世界で最も苛烈、果敢に戦い、戦い続けることに最も純粋な戦人だったと思う。赤壁(せきへき)で周瑜(しゅうゆ)を撃破していればあるいは覇道は成ったかもしれない。その意味で悲劇の英雄でもある。
曹操が生涯に直接戦った戦闘は計67。すさまじい数だ。しかも、そのうちの約50は負け戦である。なぜ折れることなく、かくも激しく戦えたのか。それは「なぜ曹操は曹操たりえたか」という問いに等しい。自らの手で漢土(かんど)14州を統一したかったのは確かだろうが、その根源にあったのは自らの国家観に対する信念の強さだったに違いない。
曹操らしい戦いといえば董卓(とうたく)との一戦だろう。190年、董卓は首都・洛陽(らくよう)で権勢をふるい、暴虐の限りをつくしていた。董卓を討つために連合軍が結成されたものの、諸侯は董卓に恐れを抱き一向に戦おうとしない。苛立たった曹操は、「大軍勢がそろっているのに、諸君は何をためらっているのか」と寡兵を率いて出撃、ズタボロに負けて死地に追い込まれる。曹操は自らの信念を貫くために、勝算はなくとも戦いを挑んだのだろう。
100万の青洲黄巾(せいしゅうこうきん)軍が大暴れして有力諸侯が手をこまねいたときには、わずか3万の兵で100万の前に対峙して、粘り強い交渉の末に降伏させている。