僧侶の堕落が廃仏毀釈の動きに拍車をかけた
松本市西部の山中で近年、ある幻の寺院跡が発見され、関係者を驚かせた。奈良時代の僧・行基が開山した由緒ある大寺院で、その名を若澤寺(にゃくたくじ)という。
若澤寺は江戸時代には松本藩の庇護を受けて興隆。寺域は周囲13kmにも及び、壮麗な本堂、金堂、救世殿などの他、末寺5カ寺を抱えるほどであったという。
ところが折しも廃仏毀釈が吹き荒れ、戸田の命で1830(明治3)年に解体されることになった。石垣を残し、寺は山谷へと帰してしまった。私も調査のため現地を訪れたが、山城を思わせるような何重にも積み上げられた石組みに驚くとともに、長年、人々の信仰を集めた存在がなぜこのような憂き目に遭い、そして復興できなかったのか、疑問が湧いてきた。
旧波田町文化財保護委員長で、若澤寺保存会の百瀬光信さんが教えてくれた。
「若澤寺は問題寺院でした。記録によれば、若澤寺の僧侶の堕落があまりにもひどかったようなんです。住職は遊女の元に入り浸り、檀家(だんか)の顰蹙を買っていたというのです。折しも廃仏毀釈の命令が下された時、地域住民や檀信徒は『こんな堕落した寺は、必要なし』と、むしろ率先して若澤寺の廃寺に手を貸したと言われています」
こうした若澤寺の堕落ぶりに檀信徒の怒りがいかに激しかったかは想像に難くない。それは若澤寺跡地に、転がる首がはねられた地蔵や、山中に放置されたままの歴代上人の墓所を見てもうかがい知ることができる。
松本では若澤寺以外にも復興を果たせなかった寺院は40カ寺ほど存在している。若澤寺のように僧侶自身の問題で再建不可能になった事例はいくつもありそうだ。
150年前の日本仏教史最大の法難は過去の遺物ではない
実は、僧侶の堕落が仏教の衰退を招いている事例は、今も150年前もさほど変わらない。現代においては法外な戒名料を要求する住職の話はちらほら耳にするし、ある名刹の住職は女性問題で罷免され、裁判沙汰にまで発展している。今の仏教界にとって、絶好の教材になりうる史実が廃仏毀釈なのである。
150年前の日本仏教史最大の法難は、決して過去の遺物ではない。地域によっては文化そのものが失われ、宗教にまつわる多くの習俗が劇的に変化したのである。
明治維新といえば2018年は150年の節目であり、多くは光の部分に脚光が集まる。しかし、闇の部分もぜひとも知っておいていただきたいと思う。
私は今月20日、『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を上梓した。これは上記のような鹿児島や松本の事例など、全国の廃仏毀釈の痕跡を訪ね、廃仏毀釈の実態を解き明かしたものだ。興味ある方は本書を手にとっていただければ幸いである。