大晦日に明らかにする平成30年=明治維新150周年の「黒歴史」

最初に暴動が起きたのは、1868年当時、比叡山延暦寺が支配していた滋賀県大津坂本の日吉大社であった。それまで比叡山の僧侶に虐げられていた神官が、仏像、仏具、経典などを焼き払った。これを機に、廃仏毀釈の波は全国に広がっていった。

鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ日本人は寺院を破壊したのか』(文春新書)明治新政府の神仏分離令をきっかけにした「廃仏毀釈」では、日本のおよそ半分の寺院が消滅し、数百万体の仏像が灰と化した。『寺院消滅』の著者が、現地調査で明治維新の黒歴史を浮かび上がらせる。

廃仏毀釈の強弱は地域差が大きい。なかでも激しい廃仏運動が展開されたのは、水戸・松本・富山・苗木(岐阜)・伊勢・津和野・高知・宮崎・鹿児島である。

とくに薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)では、幕末から1876(明治9)年までにかけて1066あった寺院が一堂一宇を残さず壊された。2964人いた僧侶もすべて還俗(げんぞく。一般人に戻ること)させられた。

薩摩藩における廃仏毀釈の背景は、藩の内政上の問題が大きい。当時、藩は西洋化を急いでおり、とくに軍備を拡充するためには大量の金属が必要であった。そこで合理的に金属を徴収するために、寺院に目をつけたのだ。薩摩藩内寺院では、釣り鐘や仏具などが次々と没収されていった。仏具などは溶かされ、大砲などの武器の鋳造に当てられた。

さらに、薩摩藩は寺院から供出させた金属で偽金造りにも関わっていく。

第12代藩主島津忠義は1862(文久2)年、当時薩摩藩の支配下にあった琉球王国を支援するため、などと幕府を欺き、天保通宝の大量偽造の命令を出す。その額は290万両にも達した(『偽金づくりと明治維新』徳永和喜著、2010年)。偽金は全国に流通し、大インフレを引き起こしたという。薩摩藩が幕末、雄藩として存在感を示していったその背景には、多大なる寺院の犠牲があったことはほとんど知られていない。

鹿児島「1世帯あたりの切り花の消費量日本一」の意外な背景

鹿児島(あるいは隣県の宮崎県)では廃仏毀釈の影響が、いまでも尾を引いている。ひとつには、県民の仏教への依存度が低いということが挙げられる。地域に寺院があまり存在しないので、お寺にお参りに行くという風習があまりない。鹿児島や宮崎では葬式の形態も、神葬祭(神道式の葬式)の割合が高い。

また、多くの歴史的建造物や仏像が壊されたので、文化財が極めて少ない。とくに鹿児島では仏教由来の国宝、国の重要文化財がひとつもない。文化財の数が少ないということは、県の文化財関連予算規模が小さいことを意味する。150年前の廃仏毀釈は、現代の教育の原資をも毀損させているのだ。

また、地域に寺院がほとんど存在しないので、「この寺にお墓を持ちたい」「この宗派の教えに触れたい」というような宗教の選択肢が限られている。憲法で守られている「信教の自由」が、実は鹿児島や宮崎、高知などではかなり制限されてしまっていると言っても過言ではない。

一方で、こんな現象も生まれている。実は鹿児島の人々は熱心に先祖供養を行う県民性で知られている。たとえば鹿児島の墓地にいけば、どのお墓にも生花が供えられているのを目にすることができるだろう。事実、鹿児島の1世帯あたりの切り花の消費量は日本一(年間1万2819円)、また10万人あたりの生花店の数も鹿児島が全国一(26店)だ。仏教としての教え(信仰)に触れる機会が減った反面、墓参り(先祖供養)が肥大化していった、とみることができるかもしれない。