松本市の164カ寺のうち124カ寺が1870年の1年間で廃寺に
もう一箇所、長野県松本市のケースも紹介しよう。松本藩では、最後の藩主戸田光則の新政府にたいする「忖度」が背景になって、激烈な廃仏毀釈が吹き荒れた地域である。
1870(明治3)年のおよそ1年間で、164カ寺のうち124カ寺が廃寺になっている(破却率76%)。
戸田家はもともと将軍家の血筋を引き、松平姓と三つ葉葵の紋を下賜されてきた家系であるが、幕末期、幕府が劣勢になってくると立場を翻意。戊辰戦争勃発時、徳川追討の新政府軍が中山道を通過する際、従来通り幕府につくか、それとも新政府につくか、大いに心が揺れたという。
結果、戸田は新政府に寝返るが、この時の迷いが軍への合流に後れをとったとの負い目を生じさせる。戸田は寝返った後は、新政府にたいする極端な忠誠心が芽生えていく。当時、神仏分離政策を推し進める新政府へのアピールとして、廃仏毀釈を過激に展開していった。
戸田はまず、戸田家の菩提寺全久院の廃寺から着手する。全久院の住職が、歴史的にも貴重で格式ある寺院であることを説明し、寺院の存続を懇願しても聞く耳を持たなかった。戸田家の位牌は、近くの川に投げ込まれ、仏像・仏具は焼き払われたという。
松本の旧開智学校は破壊された3寺院の建材で組み立て直された
ところで松本観光といえば、国宝松本城がその筆頭に挙げられるのではないか。そして松本城と並ぶ名所が重要文化財の旧開智学校であろう。
旧開智学校は八角形の塔のついた和洋折衷のモダンな建物だ。明治初期における近代教育の礎となった場所でもある。実はこの旧開智学校は全久院でバラされた建材のほか、戸田によって破壊された松本市内の寺院計3カ寺の建材によって組み立て直されたものだ。明治初期に実施された文部省調査によれば、全国の約4割の小学校が廃寺を活用したものだとしている。近代教育制度確立の影で、多くの寺院が壊されたのだ。
さて、ここまで明治維新における権力者の寺院破壊について批判的に述べてきた。だが、強調しなければならないのは仏教者にも責任があったということだ。僧侶の堕落が、廃仏毀釈を加速させた側面がある。
それは松本における、僧侶の堕落と廃仏毀釈の関係性が興味深い。