「牛丼=吉野家」その原点に立ち返る
【弘兼】先ほど通ってきたエントランスには、吉野家と並んで讃岐うどん店「はなまる」のロゴが見えました。同じグループだと初めて知りました。うどんやそばに嗜好がある僕ら団塊の世代が年を取るにつれ、そのニーズも高まるのではないでしょうか。
【安部】ええ、まさに。基本的には人口数の多い層の嗜好がマーケットをつくります。団塊の世代に消費が引っ張られるのは当然です。
【弘兼】やはり、マーケットに合わせて事業展開していくものですか?
【安部】いえ、そうとは限りません。それぞれの企業が創業時から独自に蓄積してきた“無形の価値”に立ち返ることが大切だと思います。パイの大きいマーケットは参入企業も多くなりますが、その場合は、先に手を付けておいた企業が有利です。
【弘兼】ブランドイメージを生かしていくのですね。確かに僕自身にも「牛丼といえば吉野家」という刷り込みがあります。
【安部】店舗数はすき家のほうが多い。ブランドとはそういうものです。
【弘兼】実は僕と吉野家との付き合いは非常に長い。勤めていた松下電器(現・パナソニック)をやめて、フリーになった頃、新橋のガード下にあったデザインスタジオでテレビコマーシャルの絵コンテを描くバイトをしていました。そのとき、仕事終わりにいつも、新橋の吉野家で牛丼を食べて帰っていました。1973年頃だったと思います。
【安部】では、ニアミスですね。私がアルバイトとして吉野家新橋店に入ったのは、70年頃。弘兼さんが通っていた頃は、残念ながら新橋店にはいませんでした。
【弘兼】安部さんの経歴を見ると、福岡県の香椎工業高校卒業後、ギタリストとなるために上京しています。
【安部】ええ。まずは東京の印刷会社に就職しました。そこからプロになる道筋を探そうと思っていました。
【弘兼】しかし、ミュージシャンとして成功するのはほんの一握り。
【安部】最初の挫折ですね。東京ではそこら中に実力者がいるわけです。仕事と両立できなくなったこともあり、いったんバンドを解散します。
【弘兼】その後、吉野家でアルバイトを始めます。なぜ吉野家だったんですか?
【安部】単純に時給が高かったからです(笑)。吉野家は相場より5割高い「時給300円」でした。もう一度小銭を貯めて、バンド活動を再開しなければならない。それだけしか考えていませんでした。すると、吉野家というのは、見かけは前掛けに長靴という前近代的ですが、実は先進的な経営をしていた。そして社員からアルバイトまで優秀な人間がたくさんいた。これは面白いなと思ったのです。