成長戦略の鍵はファッション+α
【弘兼】僕が初めてニューバランスのスニーカーを手にしたのは10年ほど前のことです。今日は久々に履いてきましたが、やはりかっこいい。シンプルでコーディネートに取り入れやすいですね。
【冨田】ほかにもグレー、ネイビー、バーガンディなど、何にでも合わせやすい中間色を中心に展開しています。靴そのものの主張は控えめです。
【弘兼】冨田さんがいま着ているトレーナーも控えめですよね。よく見たら胸の位置に「NB」と入っている。ファッションとして普通に着ることができそうです。
【冨田】だからか、ファッションブランドだと思われることも少なくありません。その部分を大事にしながらも、スポーツブランドとして浸透させていくことが、これからの成長戦略の鍵になりますね。
【弘兼】冨田さんがスポーツ業界に携わるようになったのは、前職の兼松からでしょうか?
【冨田】ええ。もともとは専門商社の蝶理で繊維原料を扱っていました。そして、原料よりもより消費者に近い製品を取り扱う仕事がしたいと兼松に転職しました。当時、兼松にスポーツカジュアル部という部署がありました。この部署の仕事は大きく分けて2つ。1つは欧米からのブランドと販売代理店契約を結んで、日本で販売することです。
【弘兼】兼松がアディダスの正規販売代理店であった時期もありますね。
【冨田】はい。スポーツに限らずアパレルでは同様のブランドビジネスがたくさんありますが、兼松はスポーツ分野で1960年代からやっていましたから早いほうですね。
【弘兼】もう1つは?
【冨田】国内のスポーツメーカーの商品をOEM、受託生産して供給することです。具体的にはメーカーのトレーニングウエアやスキーウエアなどを企画から入って、中国や東南アジアで生産。それをメーカーに納品するという仕事です。
【弘兼】冨田さんはその2つのうち、どちらを担当していたのですか。
【冨田】両方ですね。ただ前者のブランドビジネスが花盛りだったのは、80年代から90年代にかけてです。その後は、ブランド側が直轄の日本支社を設立することが増え、商社が間に入るというのは少なくなっていきました。
【弘兼】ブランド側の日本に対する方針が変わったのはなぜでしょうか?
【冨田】欧米の大きなブランドにとって、かつては極東のマーケットは距離的にも離れているし、商習慣も違いました。目が届かないので、日本の商社が入って展開することは理にかなっていた。その後、インターネットの発達とともにグローバリズムが進んで、非常に世界が小さくなった。自分たちのブランドを全世界で同じように表現していく方向に進みました。ライセンスを現地に任せるというかたちだと、本社の意図と変わってしまう可能性があります。それならば自分たちで資本を投資して、自らの会社を設立するというのは当然の動きだったのでしょう。