前社長が急死、事業を引き継ぐ

【弘兼】その流れの中で、冨田さんも商社からニューバランスというブランド側に転職することになりました。どのような経緯だったのですか?

【冨田】兼松の同じ課の先輩がすでにニューバランス ジャパンに転職していました。彼とは年齢も12歳離れており、家も近かったので、よく飲みにいったり、いろいろと相談にのってもらったりしていました。

【弘兼】後にニューバランス ジャパンの社長になる林喜弘さんですね。林さんから来ないかと誘われたのですか?

【冨田】商社はアパレル業界ではいわば黒子のような存在です。自分たちで消費者に直接売っていくというよりも、メーカーがいかに上手くビジネスをしていくのかというのを考えます。

(左)アメリカ工場での製造過程。職人の手により一つひとつ作られる。(右)2016年11月、日本初・世界最大規模のグローバルフラッグシップストアを原宿に出店。

【弘兼】林さんは、黒子から脱して自分でやってみたいと思った。

【冨田】そうです。そして私にこう言ったんです。「おまえも、お客さんと接触できるビジネスをやったらいいんじゃないか。ブランド自体をいかにしてお客さんに届けていくかというビジネスに切り替えたほうがいいのでは」と。

【弘兼】その言葉に冨田さんはぐらりときて、2007年に転職します。いきなり営業本部副本部長という要職についています。

【冨田】05年に林が社長に就任していました。彼が社長兼任の営業本部長でした。私が副本部長で入った数カ月後、林は社長に専念、私が営業本部長となりました。

【弘兼】自分の信頼できる部下を呼び寄せたということですね。僕の漫画『島耕作』シリーズに出てくる、課長時代の島耕作と中沢部長の関係を思い出しました。林さんは冨田さんに、何を一番期待していたのでしょうか?

【冨田】ニューバランス ジャパンの社員というのは、ニューバランスの靴が好きで入ってきたという人が多い。靴好きで自分のブランドに誇りを持っています。そこから一つ突き抜けて、総合的なスポーツブランドとしてやっていくとなると、マインド、手法を変えなければなりませんでした。