吉野家の創業は、1899年に遡る。大阪出身の松田栄吉が、料亭での修業を経て東京・日本橋の魚河岸に食堂を開く。1926年、関東大震災後に魚河岸が日本橋から築地に移転されたのに伴って、店も移っている。もともとは魚河岸で働く人間を顧客とした10坪足らずの小さな店だった。これが、築地1号店である。
45年の東京大空襲で築地市場は全焼。店の再建を任されたのが栄吉の息子、瑞穂だった。中央大学法学部出身の瑞穂は、戦後、アメリカの“チェーンストア経営”を取り入れて、事業を拡大していった。安部が吉野家にアルバイトとして入ったのは、急成長の時期だったのだ。

“殺し文句”でバイトから正社員に

【安部】私が入ったときはまだ5店舗しかなかった。その数年前に、アメリカのチェーン店にならって、シンボルカラーがオレンジ色に統一されていました。親父(当時の松田瑞穂社長)はアメリカ式のチェーン店の経営理論をそっくりそのまま取り入れていた。肉のバイヤーは「ミート・マーチャンダイザー」、店舗物件開発担当は「ロケーション・ディレクター」、人事教育部長は「エデュケーター」と呼ばれていました。

【弘兼】その吉野家の先進的な経営を肌で感じて、ここでやっていこうと思った?

【安部】いえ、まだ腰掛け気分でした。アルバイトのまま仕事を覚えて店長代行になったんです。ある日、突然適性検査を受けさせられて、合格。半年やったらボーナスが出るぞという殺し文句で「はい、よろしくお願いします」と(笑)。72年2月のことでした。

(上)1968年12月にオープンした新橋2号店。(下)右端が安部氏、28歳。パーティーの参加者と。(時事通信フォト=写真)

【弘兼】入社後、77年には九州地区本部長になっています。異例の出世だったのではないですか?

【安部】76年に大阪地区本部、翌77年に九州、名古屋と次々と地区本部が立ち上がっていますが、本部長はみんな私と同じようなキャリアと年代の若手社員でした。私の場合は、九州地区本部の立ち上げの際、自分に本部長を任せてほしいと親父に直訴しました。

【弘兼】急成長期の吉野家は、相当荒っぽい労働環境だったのでは?

【安部】ええ(苦笑)。九州で最初の店舗を開いたとき、東京の店から人を呼び寄せたのです。そのときの誘い文句は「大広間でゆったりと寝られる宿泊施設で、大風呂完備」でした。福岡に来た彼らは唖然としていましたね。競艇場の近くの倉庫を借りて、そこに店舗と工場をつくっていたんです。大広間というのは工場の2階。そこで貸し布団で雑魚寝。

【弘兼】大風呂というのは?

【安部】プラスティックの大きな桶に水を溜めたのが大風呂でした。当時の仲間とは今でも笑い話です。ただ我々は嫌々仕事をやらされていたのではなく、能動的にやっていたので楽しかった。それに私は、リーダー候補にはハードワークは避けられない、と思うんです。

【弘兼】この連載では様々な経営者に話を聞いていますが、みなさん若い頃は例外なく、滅茶苦茶仕事をしていますね。

【安部】親父は、成長する組織についてこう表現していました。「500人の利口な人たちを、50人のバカがマネージメントする。それをコントロールするのは、5人のクレージーな人」。

【弘兼】その意味は?

【安部】言われたことをきちんと理解し、こなせる常識的な人が大勢いなければ組織は成り立たないが、それだけでは動かない。利口な人たちを使いこなすにはバカにならなければならない。その上に全体をコントロールして、組織全体の推進力を力に生み出すのは、少数の狂気が必要となる。自らにハードワークを課して、進んで新しいことにチャレンジしていく、逞しい人間でないと、リーダーとして未来を託せない。ただ、それを全員に強要するのは問題です。