わしが経団連を潰してやろうか!
さて、戦後の日本経済は決して一本調子で成長してきたわけではない。石油危機に見舞われ、高度成長に黄信号が点った70年代、「財界総理」経団連会長として経済の安定化に尽力したのが土光敏夫である。
土光は1896年に現在の岡山市で生まれ、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。社長を経て東芝の社長・会長をつとめた。経団連会長を退任後も、第2臨調会長として行財政改革に執念を燃やした。大物財界人でありながら質素な暮らしぶりで知られ、「メザシの土光さん」として親しまれた。その一方、「荒法師」とあだ名されたとおり、強烈なリーダーシップで難題にぶつかっていくのが常であり、側近はもちろん政治家、大会社の経営者らを震え上がらせた。
「君ら経団連の連中は、国鉄と一緒で潰れないと思って怠けているんだろう。わしが潰してやろうか!」
経団連の秘書課長、秘書室長として長く土光に仕えた居林次雄(現・弁護士)は、初対面の土光に机を叩きつつそう怒鳴られたという。のちに「民僚」と皮肉られた経団連事務局にはスマートな理論家が多く、土光がやろうとする景気回復策に「序文から入って、仮説を立てて、実験をした結果、ダメでしたという大論文を提出するんです。そりゃ、怒られますよね(笑)」。
土光が求めていたのは「まず結論、説明はあと。わしが尋ねたら初めて理由を説明せよ」というシンプルな問答だ。その呼吸を呑み込めないと、「日本語が通じないのか」と怒鳴られた。
怒る相手は部下だけではない。三木武夫首相以下自民党3役との朝食会で、首相が景気対策に触れようとしないことに業を煮やし、「経済の底割れが起こったら何となさるのか」と一喝したこともある。
ところが、タービン技術者として出発した土光は「自分も労働者だと思っていた」(居林)から、ブルーカラーに対しては強い仲間意識を示し、怒鳴りつけることはなかったという。
「労組の人とは一升瓶を酌み交わして語り合ったと聞いていますし、はるか海面下の青函トンネルの工事現場へ視察に行ったときは、説明される工法のいちいちに驚嘆してみせ、現場の人たちの心をつかんでいました」(居林)
優しさや気配りを示すにも、独特のやり方があった。たとえば、横浜の自宅前に警護の交番を設置したいと警察が申し出たときは、こういって断った。
「うちは婆さんと2人暮らしだ。警官に婆さんがお茶を出さなくちゃならなくて大変だから、交番はいらない」
経団連会長の大役を秘書として支えた居林に対しては、ある日、ぶっきらぼうに言葉をかけたという。
「このごろは経団連も、日本語が通じるようになったな」
少々の誤解や軋轢は気にしない。現代流のコミュニケーションでは上司として失格の烙印を押されそうだ。しかし、土光の真意は時がたてば必ず伝わったという。いまとなっては懐かしい、明治生まれの作法である。
(文中敬称略)