勝負は時の運というけれど、官兵衛はなぜ負けなかったのか。傑出した参謀の手法を丸裸にする

明智光秀を極悪人に仕立てる

本稿は黒田官兵衞の情報学に絞り込んで、彼のインテリジェンス戦略がどのようなものであったかを探ってみたい。

明智光秀が引き起こした信長暗殺(「本能寺の変」)は、背後に天皇家、公家集団、足利公方が暗躍した、じつに人脈の輻湊(ふくそう)<物事が1カ所に集中し、混雑する様子>した政変であり、イデオロギー的には、正統への回帰、歴史的には一種の精神クーデターだった。その意味は堕落した精神・思想状況にカツを入れることだ。

ところが、「主殺し」の汚名を明智光秀に着せて、さりげなく仇討ちをしたことにして(山崎の合戦)、その後の織田家中の内ゲバに勝利し、天下を横取りし、しかも正義を獲得し、歴史を改竄したのは秀吉である。つまるところ豊臣秀吉は信長政権の簒奪者である。

これがインテリジェンス戦争の勝利なのである。その秀吉の帷幄(いあく)<作戦を立てる所>にあって作戦立案を推進した情報学の軍師は、黒田官兵衛である。

黒田官兵衛は戦略的発想より戦術の立案が得意であり、国家の大本や、国家国民の行く末という大戦略の立案者ではない。あくまで局地戦の軍師であり、国家100年の大計は家康ら大戦略家の仕事だった。

軍事作戦において黒田官兵衛の発想は武士の形式にはとらわれない、自由自在なところがあった。あたかも巨大ダム工事のように川をせき止めて敵の城を水没させる作戦(備中高松城水攻め)など、従来の武士の発想ではない。このために土嚢をつくって持参すれば倍の値段を百姓に支払って工期を早めるなど明らかに商業主義の計算に基づく。鳥取城干し殺し作戦でも兵糧攻めを効率化させるため鳥取の農民、商人から2倍、3倍の値で米を事前に買い占めて籠城組の飢えを促進した。これは商業戦争の投機であり、武士の美意識からほど遠い。

武士の発想は硬直的になりがちであるが商人は自由奔放な発想が得意である。人より先に突っ走る行動力があり、抜け駆けも得意である。それは情報というものに高い価値を見いだし、あらゆる分野の情報に鋭敏だからである。だから同じ発想を好む秀吉とは気が合ったのだ。

武士の精神を重視した家康から官兵衞は極度に警戒され、関ヶ原以後、家康は官兵衛の野心を見透かした。また官兵衞はそのことを客観的に認識できたから出処進退を速やかに決めて京の藩邸に隠居を決め込む。