勝負は時の運というけれど、官兵衛はなぜ負けなかったのか。傑出した参謀の手法を丸裸にする

秀吉を天下人に押し上げた現場力

のちの天下人・羽柴秀吉は織田家の中国方面司令官として官兵衛と出会い、手を携えて西日本の攻略を進めた。(AFLO=写真)

歴史を研究する者の立場からすると、現在一般に流布している黒田官兵衛のイメージは、史実にある官兵衛の姿とはずいぶん違っていると思います。大河ドラマ「軍師官兵衛」における官兵衛像も、テレビ向けに少々派手な演出が加えられたもの、と考えるべきでしょう。実際の官兵衛は、もっと地味な存在でした。

といっても、確実な史料に基づいて浮かび上がってくる黒田官兵衛は、小説やドラマで描かれてきた官兵衛とは違った意味で、やはりただならぬ人物だったということはできるでしょう。

官兵衛はナンバーワンにはなれなかったし、自分でもなれないことを知っていました。けれど、偉大なるナンバー2ではあったのです。

私見ですが、これほど見事なナンバー2は、長い日本史の中でもきわめて稀有な存在です。そういう人物であったがゆえに、後世の人々が夢やロマンを託し、いろいろな逸話や物語が作られて、世間に流布しているような黒田官兵衛像ができあがってきたのでしょう。

もちろん、フィクションにはフィクションなりの価値があります。しかし私はここで、もう一度、より現実に近い黒田官兵衛像というものを見直すことも、意味のあることだろうと思うのです。神算鬼謀の神がかり的な軍師としての黒田官兵衛ではなく、戦国末期、播磨国の小豪族に生まれた一人の人間が、どのように現実の困難な問題に立ち向かい、あの時代を生き抜いていったかという見地から、黒田官兵衛という人物について考察してみたいと思います。

まず言えることは、官兵衛はドラマのように華やかな人ではなかったということです。私の想像する官兵衛という人物は、非常に冷静で理知的で、緻密な人物です。その根拠となるのが、官兵衛の手紙のやり取りです。何十通という単位で、当時の手紙が残されているのです。

官兵衛が家老として仕えていた小寺家は、官兵衛自身の献策により、東方の大勢力、織田信長の傘下に入りました。織田家にあって中国方面の攻略を指揮していたのが羽柴秀吉です。上司にあたる秀吉との書状のやり取りを読むと、官兵衛の人物像が見えてきます。