秀吉の「軍師」ではなかった?

数々の文面によれば、官兵衛は常に秀吉の意図を非常に細かいところまで尋ねていることがわかります。たとえば九州遠征の際も、戦況を細かく報告し、どこにどう軍勢を動かせばいいのか、あるいは補給はどうしようとか、毛利家の動きはこうなっているが、自分はどうしたらいいかという判断を逐一秀吉に仰いでいる。このときは、上方にいる秀吉との間に飛脚を使った定期便のようなものを設けていました。

つまり官兵衛は、権限内においては自分で判断をしますが、大事なところに関しては、必ず秀吉の判断を仰いでいる。それも実にこまやかに。これは後の家康との対応でも同じです。関ヶ原合戦の際にも、やはりきめ細かく家康の裁量を仰いでいる。

今ふうに言えば、上司へのホウレンソウ(報告・連絡・相談)を怠らず、権限を越えるところでは、上からの指示を待って行動したのです。内心「こうしたほうがいい」と思っていても、それが権限を越える事柄であれば「勝手なことはしない」というのが、彼のナンバー2としての持ち味です。

そのことを考えれば、官兵衛は秀吉にアドバイスをする、いわゆる「軍師」の立場にはなかったということがいえるでしょう。むしろ側近として秀吉を支えたのは、千利休であり豊臣秀長でした。

軍事面に絞っても、官兵衛が秀吉に助言したという確実な事例は見つかっていません。判断するのは秀吉であって、官兵衛の役割はその秀吉の指令をしっかりと遂行することでした。その遂行において、非凡な能力を発揮したのが黒田官兵衛という人物だったのです。

もっとも、官兵衛の地元である中国地方の攻略では、官兵衛が軍師的な役割を担った可能性はあると思います。秀吉が信長の武将として備中高松城を攻めたとき、その側には官兵衛がいました。土地勘があって、この地域の人間関係を熟知していた官兵衛が、秀吉に有益な情報提供をしたであろうことは容易に想像できます。

高松城の周囲は湿地帯で、秀吉は城の周囲に高さ7、8メートルの堤防を築いて、水攻めをしました。その水攻めを献策したのが官兵衛だったという説があります。さらにその最中に、本能寺の変が起きています。主君信長を失い茫然自失の秀吉に「これは天下取りのチャンスだ」と囁いたのが官兵衛であるとか、それで秀吉は発憤して世に言う中国大返しをやってのけたのだという話も残っています。