勝負は時の運というけれど、官兵衛はなぜ負けなかったのか。傑出した参謀の手法を丸裸にする。

どうやって信長に抜擢されたか

幽閉された官兵衛が自分を裏切ったと思い、人質の長政殺害を命じた織田信長(1534~1582年)。(amanaimages=写真)

黒田官兵衛と織田信長が岐阜城で初めて顔を合わせたとき、お互いに、「まったく同じことを考えている人間がここにいた!」と、驚きとともに感じ合うものがあったのではないか――安部龍太郎さんはそう確信している。

「西は毛利、東は織田の2大勢力に挟まれた当時の播磨には、大大名がおらず、中小の豪族たちの分立状態。小寺家も今後天下を取るのは誰か選択に迷います。毛利か、織田か、それとも三好党か。やはり毛利だろうという雰囲気が多数を占めるなか、ひとり家老の官兵衛が『いや、そうじゃない。次は織田の時代だ』と信長に帰順すべきだと周りを説得します。

領主の小寺政職も信頼している官兵衛が、そこまで推すのならばと、繋がりを付けるために官兵衛を信長の元へ派遣します。他の重臣にしてみれば、どうせ足蹴にされて帰ってくるだろうくらいに思っていたのではないでしょうか。

『ラストサムライ』のロケ地にもなった西の比叡山
書寫山圓教寺。別所長治の反乱で、姫路城にいた秀吉は別所氏と西の毛利氏に挟まれ窮地に陥るが、官兵衛のアイデアで書寫山に本陣を移し、危機を回避した。明治時代まで女人禁制だった。

毛利は瀬戸内海の交易をほぼ支配していますし、播磨は地理的にも歴史的にも近いからシンパシーがある。毛利の保守的で穏やかな外交戦略に比べると、比叡山焼き討ちや伊勢長島の一向一揆に対する皆殺し的な信長のやり方は、世界観があまりにも違いすぎて、脅威でしかなかったでしょう。

それでも、官兵衛が信長を選んだポイントは2つ。信長は長篠の戦いで圧倒的な火力で当時最強と言われた武田騎馬隊を撃ち破り、八方の敵と睨み合いながらも、関東から近畿地方までをほぼ勢力圏においていたこと。

もうひとつは、毛利は博多を中心に明国貿易を得意にしていたのに対し、信長は堺を押さえ、南蛮貿易ではるかに大きな利潤をあげていたことです。官兵衛の居城・姫路城、主である小寺政職の御着城は瀬戸内に面しています。信長に付けば堺を中心にした南蛮貿易に食い込むチャンスもあると見たわけです」

そして、天正3(1575)年、両者は対面する。

「これから天下はどうなるかと信長は問うたのでしょう。官兵衛は自らが考える天下の動き……上杉、武田、北条勢の現状と将来。対一向宗の戦略、播州の状況、なかでも中国方面の攻略方法を、経済、地形、軍勢、戦法、毛利家の気質など、あらゆるデータを分析し、見通しを理路整然と述べ、そのうえで、信長が天下を取ると予言した。