それは信長の考えるビジョンと同じでした。中世の権威や秩序との決別という革命的発想の持ち主である信長にしてみれば、小豪族の家老にすぎない官兵衛が、自分の考えを深く理解していることに驚くとともに、すっかり気に入ったのでしょう。愛刀、“圧切長谷部”(へしきりはせべ)を与えます。おべっかや、へつらいではなく、冷静で正確な情勢分析があった。つまり、官兵衛には情報を収集する力と、それを的確に分析し、予測し、判断する能力があると結論したのです」

信長は官兵衛を中国方面担当の羽柴秀吉と組ませた。

『影武者』のロケ地にもなった別名・白鷺城
秀吉が信長の命を受けて中国攻めのため播州入りした際、官兵衛は、自分の居城であった姫路城を、城ごと秀吉に差し出して秀吉を驚嘆させた。本格的に城郭を築いたのは関ヶ原の戦い後、池田輝政。

「秀吉と官兵衛を組ませたらすごいぞ、と信長は興奮すら覚えたのではないでしょうか。例えて言うなら、不世出の天才投手に、全体を見渡せる視野を持った聡明な捕手の組み合わせ。黄金バッテリーの誕生です」

信長と秀吉は、全くタイプの異なる人間だ。信長のような激情型専制タイプの上司に対するときと、秀吉のような気配り型のリーダーと付き合うときでは、官兵衛は対応を変えていたのだろうか、それとも、いつでも自分は自分らしくというスタイルだったのだろうか。

「それはもう、必ず相手に合わせていたでしょう。媚びるわけではなく、この人と付き合うにはどうすればよいかと常に考え、それに応じた立ち居振る舞いをしていたと思います。

これは加藤清正の言葉ですが、『人と会う前には、たとえ茶の湯の席でも酒の席でも、あるいは評定の席でも、相手が何を言いかけてくるか、必ず考えてから席に臨め』というのがあります。用意をしておけば、即座に対応できるから恥をかかずにすむ。面目を失えば、男として、武将として生きられない時代です。戦をしている連中ですから、たとえ味方でも、言い負かされたらおしまい。今日あいつに会ったら、こういうことを言われるかもしれないと、一人一人についてシミュレーションを重ねてから対峙していたのでしょう。大変な作業です。しかし、この時代はみんな、そういう覚悟と戦術を持って生きていたということです」