椎名が文字通り大勢を惹きつけたことから、思わぬ規模に発展したイベントがある。日本IBMの研修施設を会場として毎年夏に開催した勉強会の「天城会議」だ。
当時のエリートがこぞって参加したといわれる天城会議は、70年に椎名の発案で始まった。日本を代表する経営者や学者、文化人が50人ほど伊豆半島・天城高原の施設に集まり、泊まりがけで政治・経済などさまざまなテーマで議論した。ソニー創業者の盛田昭夫のように、ヘリコプターで駆けつける参加者もいたという。
多忙な経営トップが、そうまでして一堂に会したのはなぜだろう。発足からのメンバーだった野田はこう考えている。
「会議そのものはもちろん、休憩や食事時間を通して、あんなに快い知的満足に浸れた会合はほかになかった。それは何よりも、中心にいるタケオの巧まざる滑稽さが出席者全員の心を和ませたからだと思うんです」
戦後の財界には快男児がいれば貴公子もいた。富士ゼロックスの社長・会長をつとめ、経済同友会代表幹事の大役を果たすなど財界活動でも活躍した小林陽太郎のことである。
「経営者として素晴らしい実績を挙げただけではなく、育ちがよく、品行方正で、映画スターなみに容姿端麗。陽ちゃんこそ『貴公子』と呼ぶにふさわしい」と野田はいう。
小林は33年ロンドン生まれ。東京の山の手で育ち、幼稚舎(小学校)から大学まで慶應義塾で教育を受けた。
経済学部を卒業後、米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールでMBAを取得。58年、富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)へ入社し、63年に富士ゼロックスへ転じた。取締役、副社長を経て78年から92年まで社長、2006年まで会長をつとめた。
富士ゼロックスは富士写真フイルムと米ゼロックス(形式上は英子会社の出資)との合弁企業。小林の父・節太郎は富士写真フイルムの第3代社長で、富士ゼロックスの初代社長もつとめた実力者。「育ちがいい」とは、このことを指している。