仕事に「喜び」を感じられるか
チベット人通訳兼ガイドのローさんが少女に声を掛けた。そして、私にこう教えてくれた。「彼女の日当は200元です」。日本円にすると3200円ほどだ。
3200円の日当があの労苦に見合っているかどうかは私にはわからない。奇跡の成長を遂げてきた中国の一部とはいえ、経済的に貧しいチベットでは貴重な現金収入に違いない。
彼女が他の手段で200元の日当を手に入れるのは容易なことではないだろう。そして、彼女の収入は彼女だけのものではない。大家族主義のチベットでは、彼女の収入が家族の生活を支えている。
「それにしても、もっとほかに仕事はあるでしょう……」。ローさんに食ってかかってもしようがないのに、私は怒りを抑えられずそう呟いた。
すると、ローさんは小さな声でこう私に囁いた。「でも、彼女はお寺の再建の仕事をしているから幸せなのです」。
私はガーンと頭を殴られたようなショックを覚えた。それはけっして高地で空気が薄いからではなかった。
年端もいかない少女が背中に重い石を積んで運ぶ。その姿だけを見れば、あまりにも理不尽で、非人間的だ。常識的な人間であれば、そんなことをさせてはいけないと感じるだろう。
でも、チベットの人たちにとって、彼女の仕事は単なる「石運び」ではない。彼女は「お寺の再建」に関わっている。だから、仕事の内容がどうであれ、彼女は幸せなのだとローさんは言うのだ。
彼女自身がどう思っているかは知る由もない。しかし、おそらくローさんと同じ思いを持って仕事に励んでいるのだろう。
私たちは仕事の「価値」を社会的、客観的な物差しで判断しがちだ。たとえば、警察官や医者、看護師といった仕事は社会的に役に立ち、価値が大きいと評価する。
それはそれで間違ってはいないのだが、実は仕事に対する物差しはもうひとつある。それは仕事の「喜び」だ。周囲から「つまらない」「大変そう」と思われようが、その仕事を通じて「喜び」を感じることができるのであれば、それはけっして苦痛ではない。主観的な物差しである仕事の「喜び」がなければ、どんな仕事も無味乾燥なものになってしまう。
「何をしているのか?」(What)だけが大事なのではない。「なんのためにしているのか?」(Why)も大事なんだよということを私はチベットの少女に教えてもらった気がしている。