民主党こそ今後の行動を問われている
アサビーヤの観点で重要なのは、この怒りが、互いの未来を引き受ける関係へ育つかどうかである。不満を抱く人々が集まり、時間や労力を持ち寄り、仲間を支え、代表を送り出す。その過程で、個々の怒りは既存の権力に対抗する集団の力へ変わる。
民主党も、この力を票として受け取るだけでは済まない。若者の要求によって、自らの政策や資源配分を変えられるかが問われる。若者の怒りで勝ちながら、勝った後の決定から若者を遠ざければ、彼らが次に変えようとする既成勢力は、民主党自身になる。
ハルドゥーンが政治的支配を考える際に見ていたのも、単一の集団だけではなかった。複数の集団の力をどう束ねるかが重要だった。現代の民主政では、異なる要求を持つ人々を、強制的に従わせるのではなく、正当な手続きと政策への納得によってつなぐ必要がある。
民主党は議会で多数を得ても、大統領職を得るわけではない。政権を監視し、問題があれば責任を問う役割がある。同時に、生活を支える予算や必要な法案を成立させる責任も負う。対立の姿勢を示すだけでは、異なる期待を寄せた有権者に応えられない。
ここから先は、限られた資源を何に使い、誰に負担を求めるかという決定が続く。支持者にとって不都合な選択をするときにも、その理由を説明し、関係を保てるかが試される。
敵を共有する集団と、負担を共有できる集団。その違いが明らかになるのは、勝った後である。反トランプの一致が、持続的な統治への協力を生むかどうかは、まだこれからの問題だ。
勝つためではなく、共に暮らすための「われわれ」へ
ここで、もう一冊の古典を重ねたい。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』である。
1831年に米国を訪れたトクヴィルは、民主社会を支える地方自治や結社に注目した。彼が見たのは、大統領を選ぶ制度だけではない。住民が身近な仕事を引き受け、共通の目的のために集まり、協力する生活だった。
地方自治では、例えば学校を設けるために、必要性や費用、場所を住民が話し合う。一人では実現できないことを、他者と協力して進める。その過程で、自分の利益が他人の利益や公共の仕事と結びついていると学ぶ。自由を使う力は、制度を用意するだけで完成せず、参加を通じて育つのである。
トクヴィルが重視したのは、人々が結社を通じて、個人ではできないことを共同で実現する力である。これはハルドゥーンのアサビーヤと同一の概念ではない。だが、権力を生み出した結びつきがどう変質するかという問いに、民主社会で共同の行動をどう育てるかという問いを接続できる。
