芥川賞を巡って大論争に

芥川賞の選考会では、作品そのものをめぐって意見が割れた。

応募原稿を読んだ『群像』編集部の籠島雅雄は、斬新な題名にひかれ、読み進めるうちに手応えをつかんだ。一方で、大胆な性描写を新人賞の選考委員がどう受け止めるか、不安もあったという。籠島はのちに、「ただ、きつい描写のわりにはどぎつくない。圧倒的に新人賞をとる内容は持っていると思った」と振り返っている。

編集長の橋中は、応募された生原稿を読むなり、「これは三分で芥川賞をもらうよ」と予言していた。群像新人賞では、実際に選考委員たちの強い支持を得ている。

ところが、芥川賞は3分では済まなかった。選考委員だった丹羽文雄は、のちに当夜をこう回想している。

「選考委員は喋りつかれていた。容易に賞が決定しないのである」

なかでも強く反発したのが永井龍男である。永井はただの選考委員ではない。文藝春秋の社員として第1回から芥川賞と直木賞の事務方を務め、両賞の育ての親ともいわれた人物だ。その永井が、村上への授賞に反対し、辞任まで申し出た。

村上を評価した人、できなかった人

このときは強く慰留され、思いとどまった。しかし翌1977年、池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』が受賞すると、本当に選考委員を辞めてしまう。

その1977年の選考会で、司会を務めていた半藤一利に、永井は「半藤くん、私はこれから以後は戦死だ」と告げたという。議論の末に改めて意見を求められると、「戦死者が口をきけるか」と一喝した。文学賞の選考で「戦死」という言葉が出てくる。それほど、自分の文学観を譲れなかったのだろう。

怒るビジネスマン
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今では名作として語られる作品も、登場した瞬間から誰もが安心して称賛できたわけではない。

ただ、興味深いことに村上を高く評価したのも、同じ文壇の先輩たちだった。

村上が受賞した1976年の選考会では、丹羽文雄の隣にいた中村光夫が、こう話しかけたという。

「そういえば、丹羽さんの『鮎』が文芸春秋に掲載されたとき、今夜と同じように評価がまっ二つに割れて、問題となりましたよ」

丹羽が『鮎』を発表したのは、1932年のことだ。生母を、一人の女性、一人の人妻として突き放して描いた。本人の回想によれば、当時は作家であっても親は親らしく扱うべきだという考えがあり、その描き方が問題になった。