発売から4カ月で100万部突破

『限りなく透明に近いブルー』は、米軍基地のある東京・福生を舞台に、若者たちの麻薬や酒、奔放な性を描いた小説だ。1976年5月に群像新人賞を受け、2カ月後には芥川賞も受賞した。村上は24歳。まだ武蔵野美術大学の学生だった。

第75回芥川賞を受賞し、記者会見する村上龍氏=1976年7月5日、東京都港区の第一ホテル
写真=時事通信フォト
第75回芥川賞を受賞し、記者会見する村上龍氏=1976年7月5日、東京都港区の第一ホテル

反響は、文学好きのあいだにとどまらなかった。当時の『群像』編集長・橋中雄二は、同誌からポルノのような小説が出たという噂が広がり、すぐに週刊誌に取り上げられたと振り返っている。

反響もすごかった。1995年の産経新聞の回顧記事によると、単行本の初版は5万部。1週間後に5万部を増刷し、その後もほぼ毎週のように版を重ねて、4カ月で100万部を突破した。2026年10月の幻冬舎の発表では、単行本と文庫を合わせて約350万部とされている。

単行本の編集を担当した宍戸芳夫は、当時の売れ方について「普通、内容だけならせいぜい五万部、それ以上は社会的広がりがないと売れない」と語っている。今の比較にはならないが、すでに本が売れない時代に入っていた中で、この小説は書店の売れ行きは異例だったという。

題名も本の外へ飛び出した。朝日新聞が1986年に昭和の世相語を振り返った記事では、1976年の流行語として「限りなく~に近い~」が挙げられている。ロッキード事件をめぐっては、「限りなく黒に近い灰色」ともじられた。小説を読んでいない人の言葉のなかにまで、題名が入り込んでいたのだ。

坂本龍一が見た素顔

東京・日本橋の丸善で開かれたサイン会では、会場の3階から階段を伝って、建物の外まで人が並んだ。遅れてやって来た村上は、「万年筆の安売りでもやるのかな」と思ったという。自分のサイン会の列だった。

その光景には、少し怖い気がしたという。ただ、騒ぎのなかでも、自分は割と冷静だったと村上は振り返っている。基地の町・佐世保の生まれのせいか、日本的な社会性をもともと「何をこんなに騒いでいるんだろうと思っていた」と疑いの目で見。

サイン会では、こんなこともあった。担当者の宍戸が、並んでいたセーラー服の中学生に「なんで並んでいるの」と理由を尋ねると、学校の先生に勧められたという答えが返ってきた。宍戸は「それほど清潔感のある小説だった」と振り返っている。

後年の山田詠美だけでなく、刊行当時にも「清潔」と読む人がいたのである。

同世代の読者にも、素直に歓迎できない人がいた。

村上と同い年の坂本龍一は、村上のデビュー当時は反発していたという。同世代にも身近な題材を小説にして賞を取り、注目される村上に、「何だあの野郎!」と思ったそうだ。ところが数年後、初めて会うと、一度で意気投合した。坂本は、村上には野獣のような活力がある一方、人に対しては繊細だったと語っている。

坂本龍一
坂本龍一(写真=KAB America/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)