テレビドラマや映画では、秀吉の子を生んだのは淀殿こと茶々のみと描かれがちだ。歴史学者の黒田基樹さんは「史料によると、秀吉には信長の家臣時代に2人、男子が生まれたと考えられる。2人目の子を産んだのは播磨の国主の家系の娘だった」という――。

※本稿は、黒田基樹『信長時代の羽柴秀吉』(角川選書)の一部を再編集したものです。

信長の家臣として長浜城主になったときの子

長浜領時代の秀吉に、別妻・南殿みなみどのと嫡男・石松丸秀勝が存在していたので、ここで取り上げることにしたい。

長浜城(復興天守)
秀吉が信長から初めて所領を与えられ、城主となった長浜城(復興天守)(写真=投稿者おにく/CC-Zero/Wikimedia Commons)

天正4年頃の「竹生島奉加帳」には、筆頭に秀吉の署判があり、続いて「御内方」(寧々)・「大方殿おおかたどの」(天瑞寺殿)・「石松丸」・「大方殿」・「南殿」が記されている。「御内方」から「南殿」までの記載は同一年におけるものとみなされ、「御内方」から「石松丸」までが5月6日の寄進、続く二度目の「大方殿」の寄進は10月吉日の寄進、それに続く「南殿」の寄進は、記載の連続性からみてそれと同日のこととみなされる。

ここにみえている石松丸は、秀吉妻寧々・秀吉母天瑞寺殿に続いて記されていることから、秀吉の嫡男と推定され、次いで二度目の天瑞寺殿に続いて記されている「南殿」は、寧々・天瑞寺殿に準じる女性ととらえられるため、秀吉の別妻で石松丸の実母と推定される。

この石松丸は、この天正4年の10月14日に死去した、実名秀勝と伝えられる、法名本光院朝覚居士(大禅定門)にあたると推定される。本光院が、寺伝にいうように秀吉の子で「秀勝」といったのかどうかは確定されないが、妙法寺の供養塔は、16世紀後半のものと比定され、同時代にあたるとみなされていることを踏まえると(山本順也「朝覚秀勝の再検討」〈拙編『羽柴秀吉一門』所収〉)、寺伝の信用性は高い。本光院が、実名を秀勝といい、秀吉の子であったことは、確かな事実ととらえてよい。

狩野随川画「豊臣秀吉像」
狩野随川画「豊臣秀吉像」名古屋市秀吉清正記念館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

秀吉の最初の子、秀勝は元服後に早世したか

妙法寺には秀勝画像があり(焼失)、そこに描かれている容姿は、「稚児風」、「袴着の儀式を行った際の晴れ姿」「三才から七才までのあいだの幼児におこなわれたもの」と評され、元服前に早世したと理解されている。画像からだとそう考えざるをえないが、「竹生島奉加帳」に名が記されていることから、その時点で、社会的に認知される8歳を超えていたと考えられる。

その場合、少なくとも永禄12年(1569)以前の生まれととらえられる。

画像賛・位牌では、元服後に対応する「居士」「大禅定門」が付けられ、実名として「秀勝」が伝承されていることからすると、本光院は元服を済ませていて、それにより実名を名乗っていたと考えるのが適当である。元服は通常、15歳でおこなわれるから、石松丸秀勝は、死去した天正4年に15歳とみると、生年は永禄5年(1562)と推定される。