おしゃれな人はボケていない

私は夜寝るとき、翌日、着たいと思う着物を、帯〆や帯揚げまで揃えておくのが好きである。明日は誰に会うとか、どこへ出かけるとかいうことがあると、前の晩に、ちゃんとそのとき着る着物を出しておく。

私のうちには広い部屋があって、その部屋の真ん中に、およそ畳一畳くらいある大きな机があるが、その机の上に着物を揃えて、「ああ、これで安心」と思って寝るのである。

そんなことまでするのが面倒ではなくて、愉しいからである。

これは私のうちへ一週に一回、私が思いがけなくギックリ腰をやって以来、治療に来ることになっている温灸の先生の話であるが、彼女が治療に回っているのは、老齢の女の人が多いのだそうであるが、決まっているように、おしゃれな人はボケていない。ボケているのは、おしゃれでない人だ、ということであった。

「ははあ、おしゃれはボケないのか」と思って、私はその話を面白く思った。おしゃれというのは、人の見る目を構うことである。人が見ても、これでよいなア、と思うことである。人が見て、何と思っても平気だというのは、おしゃれではない。

安堵の気持ちは文明人の節度

さて、私はよく人に話すことであるが、「あたしは125歳まで長生きするのよ」と言う。しかし、そんなに長生きをして、しかもボケないでいることができるだろうか。私はそれができるような気がするのは、私がおしゃれだからである。おしゃれをするのが好きだからである。

私はこれからもせいぜい、おしゃれをすることにしたいと思う。100歳を過ぎてもボケないでいられるのは、この方法だけかもしれないと思うからである。100歳には100歳としてのおしゃれがあるはずだからである。

人に見られるときは、髪もきちんと結い、化粧もして、着物もそのときに似合うような地質のもので、色も柄も、自分に似合うようなものを、撰んで着ていたい。そうしていれば、何となく安堵した気持ちで、相手の人に対しても、失礼ではない、と言う気がするからである。

着物を着た女性
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この、安堵の気持ちは、大袈裟に言えば、文明人の節度、とも言うべきものである。いつでも、自然に、この気持ちでいられるようになればしめたものなのであるが、私などは、どうしても、ちょっと意識する。

お洒落をする、或いは気持ちよく身じまいをすることは、生きて行く上の、生き甲斐でもある。ちょっと大袈裟に言うと、人としての義務である。お洒落は自分のためにだけするのではなく、半分以上は、自分に接する人たちの眼に、気持ちよく映るように、と思ってするのだから。