※本稿は、宇野千代『死ぬまで自由に生きる習慣』(明日香出版社)の一部を再編集したものです。
頭ではなく、手で考える
「私はいつでも忙しい」と言うのが、私の口癖である。私はいっときでも、ぼんやりして、何にもしないでいることはない。
いつでも、何かしている。頭で考えているのではなく、手を動かして、何かをしている。頭で考えているのは、どんな立派なことを考えているのでも、何かしているのではない。それは、くうなことであるからだ。
大根をみじんに刻んでいるのでも、手を動かして大根を刻んでいると、おや、大根というものは、それを刻むのに、ああするのではなく、こうするのだ、ということが分かるからである。
少しずつ大根をずらして、包丁をずらして、それを目にもとまらないほどの素早さでする。そういうことが分かるからである。
頭で考えるだけのことは、何もしないと同じことである。私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。手を動かすことによって、考えるのである。手を素早く動かすことが、そのまま、頭を素早く動かすことになる。
どんなことをするのにでも、まず頭が、その、することを伝達する。その伝達が間髪を容れないほど素早いのは、手が、頭の伝達を、神業のように素早く受け取るからである。
私たちは、まず、手を動かすのかと思うほど、頭の伝達を素早く受け取る。頭の動きというものは省略されているのかと思うほど、手が、手だけが素早く動くのである。小説を書くのも、手が動くのである。
どんな大傑作を書くのでも、手が動くのである。手の動かないものは何にもない。私も時どき、頭の中だけで、大傑作を思いつくことがあるが、それは手で考えたのではないので、さて、書こうと思うと、何であったか、まるで思い出せない。
まず必要なことを言うと、私たち小説家の場合でも、目の前に紙を広げ、手に鉛筆を持って考えることである。なまけ者というのは、ちっとも手を動かさない者のことを言うのである。

