秀吉のせいで朝廷が二分された

さて、そこから先、秀吉は上り詰めるにあたって慎重にことを運んだ。朝廷からは右大臣への任官を勧められたが、それは信長が就いた最高の官職(極官)だった。秀吉は、明智光秀に討たれた信長の極官が右大臣だったので縁起が悪いため、左大臣を望む、という旨を回答した。だが、本音をいえば、みずからの天下人の地位をゆるぎないものにするために、一気にかつての主君の極官である右大臣を飛び越え、左大臣まで昇進することを望んだ、ということだろう。

秀吉がこう希望したことで、天正13年(1585)5月、すなわち秀吉が四国征伐を命じた時期に、朝廷内を二分しての争いが起きる。

京都御所
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このとき左大臣には近衛信輔(のちの信尹)が就いていた。そこで信輔は、自分が左大臣の官職を譲る条件として関白就任を要求し、同年2月に関白になったばかりの二条昭実あきざねに、関白職を譲るように求めたのである。

だが、昭実にすれば、就任したばかりの関白職を譲る理由はない。昭実は、二条家では就任後1年以内で関白を辞した例がないことを理由に抵抗した。

結局、争いは朝廷内を信輔派と昭実派に二分する争いへと発展し、両者の主張はまったくかみ合わず、正親町天皇も決断を下せずに、膠着状態に陥った。ここにおいて、二条昭実は事態を打開するための助力を秀吉に求め、続いて信輔も、秀吉の調停を要求したので、秀吉の思うつぼだった。

農民の子は関白にはなれないが…

朝廷内でこの争いが起きていた時期は、まさに四国で秀長らが戦っていた時期だった。そのとき秀吉は、四国の戦闘を秀長らにまかせて大坂城にいたため、この争いに積極的に介入することが可能になった。

秀吉は側近の前田玄以や公卿で秀吉に接近していた菊亭晴季きくてい・はるすえらと協議し、秀吉自身が関白に就任すべきだという提言を晴季から得た。そこで近衛家と親しい玄以を通じて、近衛信輔と、その父で、元関白および元太政大臣の近衛前久に、関白には自分自身が就任するという旨を伝えた。二条家との争いに負ければ近衛家の破滅につながるから関白は自分に、という秀吉らしいメチャクチャな理屈だった。

近衛前久像(『贈答百人一首』「龍山公」)
近衛前久像(『贈答百人一首』「龍山公」)(写真=Leehiroki258/CC-BY-SA-4.0/ Wikimedia Commons

だが、近衛父子には、関白職には五摂家以外は就けないからと反対された。そこで、それまで平氏を名乗って叙位任官されていた秀吉は、近衛前久の養子になって(すると信輔の兄にもなる)、藤原姓を獲得することを申し入れた。

いくら農民出身の秀吉とはいえ、この時点でもっとも天下人に近いのは、だれが見ても秀吉だった。しかも秀吉は、礼として近衛家に1000石(ほかの摂家にも500石)を宛がうと申し出た。最高実力者からの「実弾」作戦に、経済的には厳しかった近衛家が逆らえるはずもなかった。