長宗我部攻めのウラで関白に
秀長率いる羽柴方の軍勢の前に、劣勢に陥った長宗我部方が和睦(とは表向きで事実上の降伏)を求めてきたため、秀長はこれに応じて、7月25日に停戦が成立した。このとき秀吉は、長宗我部家が土佐(高知県)一国を領有することを認めている。
この四国征伐の期間、すなわち秀吉が決断し、秀長が渡海してから停戦までのあいだ、大坂に留まっていた秀吉は、自身の政権を築き上げるうえで非常に重要なことを成し遂げている。元親が降伏する2週間前の7月11日、関白宣下を受けたのである。そこに至るまでの経緯を、以下にざっと記したい。
秀吉は天正3年(1575)に筑前守に任官して以来、9年以上も朝廷からの叙位任官とは無縁だった(筑前守任官を否定する見解もある)。小牧・長久手の戦いがまだ続いていた天正12年(1584)10月15日にようやく、従五位下左近衛権少将に任ぜられた。
ここにおいて秀吉は、御所における天皇の居所、清涼殿への昇殿が許される「貴族」としての、最低ラインに並んだのだが、以後の昇進は異例のスピードだった。
またしても信雄を利用する
翌月の11月21日には従三位権大納言に叙任された。これで上級の貴族である「公卿」になった。その後、翌天正13年(1585)2月26日には、秀吉が推挙して織田信雄が、秀吉を上回る正三位権大納言に叙任されているが、ここには秀吉らしい策謀が見てとれる。
その6日前の2月22日、信雄は大坂城に伺候し、事実上、秀吉の軍門に下ったが、秀吉はかつての主家、織田家の当主たる信雄を立てて、自分より上の位階に昇格させた(官職は同じ権大納言でも、位階は従三位の秀吉より正三位の信雄のほうが上だった)。信雄も面目が立ったことだろう。
しかし、信雄がそういう気持ちでいられたのは、ごくわずかな期間にすぎなかった。約20日後の3月10日には、秀吉は正二位内大臣に任官され、あっという間に信雄を抜き去ってしまった。
秀吉はあえて信雄をいったん自分の上に置き、朝廷の権威を借りてそれを瞬時に抜き去ることで、主家を追い抜いたことを全国に知らしめ、名実ともに織田家の家臣から脱したのである。信雄はいわばダシに使われたわけだが、これこそが秀吉一流のやり方だった。

