戦いの趨勢を決めた利家の退却
だが、一度ボタンが掛け違うと、すべてがずれてしまう。4月20日午前10時ごろ、中川清秀が討たれたと聞いた秀吉は、猛スピードで戦場に戻った。大垣(岐阜県大垣市)を午後4時ごろ発ち、午後8時ごろには、50キロ以上も離れた本陣の木之本(滋賀県長浜市)に着いていた。この「美濃大返し」は、必ずしも速くなかった「中国大返し」と違い、正真正銘の大返しであった。
そして翌日早朝以降、戦場に残っていた佐久間盛政の軍が、「大返し」した秀吉の軍にねらわれた。白兵戦が展開し、秀吉が200~300人ほどの若い馬廻衆らを勝家の本陣に突撃させたのが決定打になったようだ。追撃を受けた勝家の軍は5000~6000人が討ち取られたという。
それでも勝家方の軍がみな真っ当に戦えば、戦況は違っていただろう。ところが、後方に布陣していた前田勝家の軍が突然、戦線を離脱してしまったのである。緊迫した戦いのさなかで、後方の守りの部隊が突如いなくなれば、陣形は崩れ、兵の士気は激しく低下する。
竹中半兵衛の嫡男、重門が書いた秀吉の一代記『豊鏡』にも、利家が秀吉に内通していたと記されている。養子の勝豊に続く秀吉の調略の一環だった可能性がある。
前田利家が肝心かなめの場面で退却しなければ、天下の行方は違っていたかもしれない。だが、結局は、「真人間」の勝家は、狡猾さの権化のような秀吉の策略に勝てなかった、ということだろう。


