勝家の周囲を崩す

秀吉が勝家を甘く見ていたのではない。秀吉は勝家を斃してはじめて天下人になれると認識していた。戦国史研究家の和田裕弘氏は〈勝家を自らの手で葬ってこそ「天下人」になれると読んでおり、秀吉にとって賤ヶ岳の戦いこそが、天下分け目の戦いであった。勝利後に高揚した秀吉が認めた書状の文言「日本の治まりはこの時に候」にそれが表れている〉と記す(『柴田勝家』中公文庫)。

また、イエズス会宣教師のルイス・フロイスも、秀吉にとって勝家こそが「主たる強敵」だったと書き遺している。

柴田勝家像
柴田勝家像(写真=『柴田勝家』福井市立郷土歴史博物館/個人蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

勝家を恐れ、勝家こそが自分の前に立ちはだかる最大の難敵だ、という認識があったからこそ、秀吉は早くから、勝家に先回りできるように策略をめぐらした。信孝を謀反人に仕立て、背後に勝家がいると吹聴したのもその一つである。だが、勝家が信孝と早くから結託していたことを示す史料はなく、秀吉の横暴がすぎるなかで、次第に連携するようになったものと思われる。

そして、秀吉が力を注いだのは、勝家の周囲を突き崩すことだった。

まさかだった”身内”の裏切り

秀吉は天正10年(1582)12月、岐阜城に織田信孝を包囲して降伏させ、人質を提供させた。明けて天正11年(1583)1月に織田家宿老だった滝川一益が伊勢で蜂起すると、その討伐に向かった。むろん、その間ずっと勝家の動きににらみを利かせ、同時に調略を推し進めた。

天正10年12月には長浜城(滋賀県長浜市)を攻め、勝家の養子の勝豊を降伏させ人質を出させている。清須会議後、勝家はあらたに得た領地である長浜領を勝豊にまかせていたが、勝豊は自分より佐久間盛政や、勝家の実子(養子とも)とされる権六が重用される状況に不満をいだいており、秀吉の調略に屈した。

勝家の養子が、単に秀吉に屈しただけでなく、以後、反勝家に転じたのは、勝家にとってダメージが大きかった。重病にかかっており、秀吉から名医をあてがわれたのも影響したようだ。

勝家も、足利義昭に京都への帰還を助ける約束をしたり、その延長で毛利との連携に向けて交渉したり、四国の長宗我部元親と連絡をとったりと、味方を増やす努力はしていた。だが、身内に裏切られたのは痛かった。

それでも、雪解けを待って天正11年3月12日に出兵した勝家方は、当初は戦線を有利に運んだ。ふたたび反旗をひるがえした織田信孝を討伐すべく秀吉が美濃(岐阜県南部)に転戦すると、佐久間盛政が秀吉方の中川清秀の砦を急襲。猛将で知られた清秀を討ち取っている。このとき清秀より北方の砦を守っていた高山右近も敗走した。

ただ、戦上手の勝家のねらいどおりにはならなかった。勝家は盛政に、敵の不意打ちがあるから砦をひとつ攻略するたびに、必ず本陣に戻るように指示していた。ところが勝利に驕った盛政は戻らなかったのである。そのまま秀吉の本陣に攻め入ろう、と考えたのかもしれない。