当初は反秀吉ではなかったが…
ただ、この会議終了の時点で、柴田勝家が表立って秀吉に抵抗した形跡は見えない。分けあたえられた領地は、秀吉には山城(京都府南部)と丹波(京都市中部、北部と兵庫県東北部)、河内(大阪府東部)の東部と、広大で要地ばかりだったのに対し、柴田勝家には近江の長浜領(滋賀県北部)だけで、秀吉とくらべるとかなり見劣りした。
しかし、柴田勝家は明智光秀の軍を撃った山崎合戦に参戦していない。最近、秀吉も山崎合戦に間に合っていなかったことを示す書状が見つかったが、秀吉は戦場の近くにまでは到達して光秀に圧力をかけた、という点で勝家と違う。むしろ、山崎合戦で埒外にあったのに、京都に出るための要所に所領を獲得していることから、勝家の存在の大きさがわかる。
その後も、しばらくは勝家が反秀吉の旗幟を鮮明にしていた形跡はない。それどころか勝家の書状などを見るかぎりでは、織田体制の継続を指向し、身内同士が争うことを憂慮している。10月6日付で堀秀政に宛てた書状でも、秀吉が清須会議で決めたことを守らず、勝手に振る舞っている、と苦言を呈しながら、それを機に内輪揉めになり、第三者に付け入る隙をあたえるべきではない、と結論づけている。苦言は呈しても対立までしていない。
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