当初は反秀吉ではなかったが…
ただ、この会議終了の時点で、柴田勝家が表立って秀吉に抵抗した形跡は見えない。分けあたえられた領地は、秀吉には山城(京都府南部)と丹波(京都市中部、北部と兵庫県東北部)、河内(大阪府東部)の東部と、広大で要地ばかりだったのに対し、柴田勝家には近江の長浜領(滋賀県北部)だけで、秀吉とくらべるとかなり見劣りした。
しかし、柴田勝家は明智光秀の軍を撃った山崎合戦に参戦していない。最近、秀吉も山崎合戦に間に合っていなかったことを示す書状が見つかったが、秀吉は戦場の近くにまでは到達して光秀に圧力をかけた、という点で勝家と違う。むしろ、山崎合戦で埒外にあったのに、京都に出るための要所に所領を獲得していることから、勝家の存在の大きさがわかる。
その後も、しばらくは勝家が反秀吉の旗幟を鮮明にしていた形跡はない。それどころか勝家の書状などを見るかぎりでは、織田体制の継続を指向し、身内同士が争うことを憂慮している。10月6日付で堀秀政に宛てた書状でも、秀吉が清須会議で決めたことを守らず、勝手に振る舞っている、と苦言を呈しながら、それを機に内輪揉めになり、第三者に付け入る隙をあたえるべきではない、と結論づけている。苦言は呈しても対立までしていない。
だが、10月15日に秀吉が、大徳寺(京都市北区)で信長の葬儀を行ってから、様相が変わったようだ。
2人が対立するようになったきっかけ
この葬儀には信雄も信孝も反対し、勝家も中止させようとした形跡がある。だが、秀吉は自分の養子になっていた信長の四男(五男とも)の秀勝を喪主に立て、葬儀を決行した。葬儀を主催するのは、言うまでもなく、後継者宣言のようなものである。
だが、勝家は大きな抵抗ができていない。要は、勝家のほうが秀吉よりも「真人間」だったということだろう。秀吉が次々と策略をめぐらすのに対し、常に後手に回ってしまう。
秀吉は織田政権を簒奪するために、信長の後継者である三法師を「傀儡」として手元に置いておきたかった。ところが、岐阜城(岐阜市)の信孝が手元から放そうとしない。そこで秀吉は荒業に出る。丹羽長秀、池田恒興と企んで、織田家の家督を三法師から信雄へと移してしまうのである。
そのうえで、安土城(滋賀県近江八幡市)へ移るべき三法師を手放さない信孝に謀反の罪を着せ、信孝を謀反へとそそのかしたとして、勝家を弾劾するに至った。ここでようやく秀吉と勝家は、すっかり対立することになった。

