「12の大型店」が競い合っていた
そもそも水戸は、大型店の激戦地だった。1975年の住宅地図を開くと、水戸駅北口から大工町にかけての国道50号線沿いに、少なくとも12の大型商業施設を確認できる。京成百貨店(志満津百貨店)、伊勢甚、丸井、西友、ダイエー、高島屋ローズランド、十字屋、田原屋――。百貨店、ファッションビル、総合スーパーが、約2キロの通りにひしめいていた。
このうち京成と伊勢甚は、百貨店を名乗った地場の2店である。丸井は月賦販売から発展した「月賦百貨店」の流れをくむ店で、高島屋ローズランドは百貨店・高島屋の系列会社が運営した総合店だった。
さらに1988年、西友が百貨店業態の「水戸西武店」へと転換する。名乗った店、ブランドを掲げた店、業態として営んだ店。本稿では、これらをまとめて「百貨店」(*1)と数える。高島屋ローズランドが閉店する1994年までの6年間、この街には5つの百貨店が同時に看板を掲げ、通りは文字どおり買い物の激戦区だった。
これほど大型店が集まったのか。理由は、水戸が県内有数の商業集積地だったからである。1965年の茨城県総合振興計画によれば、水戸市は県全体の小売販売額の27.6パーセントを占める「県商業の中心地」と位置づけられていた。当時の人口は約20万人だったが、業界誌『商業界』(1977年)は水戸の商圏を72万人、実質商圏を41万人と見積もっている。市の人口を大きく上回る買い物客が、県内各地から水戸へ集まっていた計算だ。
良いものは百貨店で、日常の買い物はダイエーで――。そんな消費の受け皿として、大手チェーンは競うように出店した。
ただ、その繁栄の陰で、すでに警鐘は鳴らされていた。同じ『商業界』は、水戸を「オーバーストア」と評している。商圏に対して店が多すぎる状態を指す業界用語だ。賑わいの絶頂にあった一方で、その過剰さはすでに専門誌から指摘されていたのである。
(注)
(*1)本稿における「百貨店」の定義は、衣食住にわたる複数の商品部門を一体的に運営した大型総合店のうち、百貨店を名乗った店、百貨店企業またはその系列会社がブランドを掲げて運営した店、百貨店業態として運営された店、月賦百貨店の系譜に連なる店のいずれかを指す。日本百貨店協会への加盟の有無は問わない。総合スーパーやファッションビル、専門店は含まない
2000年代から相次ぎ撤退、7つが消えた
2000年代に相次いだ大型店の閉店は、突然始まったわけではない。1993年8月にユニー水戸店が、翌1994年には高島屋ローズランドが閉店した。ただ、この時点では、まだ「一部の大型店が撤退した」段階だった。本格的な閉店ラッシュが始まったのは2000年代である。
2000年にはまず、水戸西武店が百貨店の看板を下ろし、総合スーパーの「リヴィン水戸店」へと転換した。そして2003年2月、ボンベルタ伊勢甚水戸店が閉店した。1724年創業の呉服商を起源とし、水戸徳川家の御用商人までさかのぼる老舗百貨店である。その後も閉店は続く。2005年10月にダイエー水戸店、2007年5月にサントピア、2009年3月にはリヴィン水戸店が姿を消した。
サントピアは、1978年5月の開業当時、渋谷パルコに次ぐ「日本で2番目のファッションビル」として注目を集めた施設だった。リヴィン水戸店も、かつて百貨店業態の「水戸西武店」を名乗った店で、前身の西友ストアー時代を含めれば約38年にわたり駅前の日常を支えてきた。
2003年から2009年までの約6年間で、4つの大型店が相次いで閉店したことになる。そして2018年9月には丸井水戸店が閉店した。ピークだった1994年に156億円あった売上は、2016年度には24億円まで落ち込み、約85パーセント減少していた。最初のユニー閉店から数えると、25年間で7つの大型店が水戸の中心街から姿を消した。
7つのうち、百貨店は高島屋ローズランド、伊勢甚、丸井の3つである。これに、2000年にリヴィンへの転換で百貨店の看板を下ろした水戸西武店を加えると、消えた百貨店は4つになる。1994年、2000年、2003年、そして2018年。5つあった百貨店はこうして1つずつ姿を消し、最後に残ったのは京成百貨店だけになった。



