「お前のハンコがないと銀行の融資が受けられない」

ある日、「お前のハンコが必要だ」と父親に言われたからだ。そのときのことを、肥土社長は次のように語る。

「お前のハンコがないと銀行の融資が受けられない。そうなったら、従業員も路頭に迷うことになる。父親に、そう言われました」

ベンチャーウイスキー・秩父蒸留所のブレンダー室で取材を受ける肥土伊知郎社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
ベンチャーウイスキー・秩父蒸留所のブレンダー室で取材を受ける肥土伊知郎社長

銀行の融資を受けるためには息子を保証人にしなければならなくなり、そのためのハンコだったわけだ。それを聞いて、肥土社長の頭に浮かんだのは「言っていたことと違うな」ということだった。

「昔から『保証人にだけはなるな』が父親の口癖でしたからね。それなのに『保証人になれ』と言っているわけですから、言っていたことと違うなと思ったわけです」

それでも、当時でも50人以上いた社員を路頭に迷わせるわけにはいかず、肥土社長は父親にハンコを預ける。2000年に民事再生法の適用を申請し、翌2001年には父親から経営を引き継いだが、経営不振は続いた。

「継ぐ気はない」と言いながら農大へ

父親と一緒に働いていながら経営不振に気づくのが遅い、という声が聞こえてきそうである。しかし、それも無理ないことで、肥土社長が東亜酒造に勤めはじめたのは1994年、29歳のときからだったからだ。

その直前まで肥土社長が働いていたのは、サントリーだった。そこに入社するまでの経緯も、かなり変わっている。

大学受験のとき、肥土社長が志望していたのは法律系の学部だった。いくつかの大学の法学部を受験するが、全滅だった。そうしたなかで、ただ1校だけ合格した大学があった。東京農業大学(農大)、それも醸造学科である。家業の酒蔵を継ぐには最適なコースだが、法学部とは方向が違う。

「父親に『家を継げ』と言われたこともなかったし、自分も継ぐ気はありませんでした。ただ農大を受験したのは、『とりあえず受けとけ』と父親に言われたからです」

ちなみに肥土社長は、少年時代の途中から東京の中央線沿線で育っている。父親は東亜酒造の経営のかたわら、都内で小料理店を数軒経営しており、家族はそのころに秩父から都内へ引っ越していた。

家業を継ぐ気がなければ、農大の合格は蹴ってもよかったはずである。しかし肥土社長は、農大に入学する。「勉強が嫌いだったから浪人するのは嫌だったから」と肥土社長は笑うが、入学してみると醸造を学ぶのは楽しかったようだ。