国生み神話を伝えた淡路王国
淡路王国の船団は、淡路島南岸を通り、紀淡海峡を渡って木(紀伊)の小国とも往来したとみられる。そこから紀の川を遡り、山を越えれば大和に入れる。
それゆえ弥生時代後期の1世紀頃になると大和の小国の首長たちが、「淡路島に有力な小国連合がある」ことを知るようになったと思われる。
淡路王国をはじめとする淡路の国々が土地の守り神として祀ったのが、伊奘諾尊と伊奘冉尊という夫婦の神であった。淡路の人びとは「夫婦の神が島々を生んだ」とする南方の神話にならって、伊奘諾尊と伊奘冉尊が淡路島とその周辺の島々を生む神話をつくった。
この神話がヤマト政権の王家に取り入れられて、『日本書紀』などに見える「国生み神話」になった。ヤマト政権が王家の祖先神話を整えていく過程で淡路島の素朴な神話は、夫婦の神が「大八島」と呼ばれる、古代の日本列島を構成する島々を生む話に変えられた。
そのときに、伊奘諾尊が娘の天照大神に高天原と地上の支配権を譲る話も、付け加えられた。そして娘に地上を委ねたあと、伊奘諾尊は淡路島で過ごすようになったとされた。
今でも、あわじ市の一宮の伊弉諾神宮で伊奘諾尊、伊奘冉尊の夫婦の神が祀られている。そこは『日本書紀』の時代以前から続く古社といわれている。
平安時代に伊弉諾神宮は、淡路国で最も権威のある神社である、淡路一宮とされた。
松帆銅鐸が埋納された後も、淡路王国は有力な王国として続いた。平成21年(2009)に、淡路市の五斗長垣内遺跡という弥生時代後期の工房跡が発見された。
鉄器の生産地となり交易によって勢力を拡大
そこからは、127点の鉄製武器が出土した。さらに工房と思われる建物も12棟見付かった。工房には、鉄の加工に用いられた石器が多数残っていた。
平成29年(2017)には、五斗長垣内遺跡の近くの淡路市の舟木遺跡が発掘された。
そこには、大掛かりな工房であったとみられる大型竪穴住居があった。
その大型竪穴住居跡の土間の床には、土が赤く焼けた鉄器加工用の炉の跡があった。そのあたりには鉄器をといだ砥石や60点ほどの鉄製品が残されていた。
1世紀から2世紀にかけて、淡路王国は鉄器の生産地となり、鉄器の交易によって勢力を拡大していったのである。
しかし交易の中心地としての淡路王国の地位は、しだいに後退していったと考えられる。2世紀後半に、吉備の小国連合の勢力が急速に拡大していったためである。
2世紀末に、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓が築かれた。その墳丘墓は直径40メートルの円形の本体の両側に、約20メートルの突出部を付けたものである。
この楯築墳丘墓は、全長が約80メートルもある。先にあげた纒向遺跡の発生期の古墳に近い規模をもつものであった。瀬戸内海の海の道は、有力な墳丘墓を残せるだけの勢力を誇る吉備の小国連合の支配下におかれるようになったと考えるほかない。
そのため淡路王国と出雲との交易は、吉備で断ち切られた。中国地方で、淡路王国は海路で吉備とだけ取り引きせざるを得なくなった。

