紀元前4世紀につくられた海の道
松帆4号銅鐸のなかには、植物片が残っていた。そして炭素測定法を試料にして植物片を調べたところ、試料の年代が弥生時代中期にあたる紀元前4世紀のものである点が明らかになった。
銅鐸の形式からみて松帆7号銅鐸は、7個の松帆銅鐸のなかの最古のものとみられる。
そして松帆銅鐸のなかで最も新しい松帆2号銅鐸は、その形式からみて弥生時代中期後半にあたる紀元前2世紀頃につくられたと考えられる。
淡路王国では、紀元前4世紀に銅鐸の祭祀が始められた。そして紀元前4世紀から紀元前2世紀にかけて複数の銅鐸が作られ、王国の大切な祭器として伝来されていった。
しかし、そのような銅鐸の祭祀は、弥生時代後期が始まってまもない1世紀に行なわれなくなった。しかし松帆銅鐸が埋納された後も、淡路王国は交易の拠点となる有力な勢力として続いたのであろう。
松帆7号銅鐸の成分分析によって、その銅鐸に朝鮮半島産の鉛が使われていたことが明らかになった。そうすると淡路王国は、朝鮮半島の交易民が日本に持ち込んだ銅素材か壊れた青銅器を購入したと考えてよい。かれらは自国の工房で、それを鋳なおして銅鐸をつくったのであろう。
青銅器の材料は、朝鮮半島南端から玄界灘、関門海峡を経て運ばれた。それはそこから、瀬戸内海の山陽側か四国側を経て、瀬戸内海に面した淡路島の西岸を通って淡路王国に持ち込まれたのだろう。
紀元前4世紀という早い時点で大陸と淡路王国とを結ぶ、このような海の道がつくられていたのだ。
交易で栄えた弥生時代の王国
同じ鋳型でつくられた銅鏡を、「同笵の銅鏡」という。松帆銅鐸の同笵の銅鐸を調べていくと、淡路王国と出雲との思いもよらないつながりが浮かび上がってきた。
出雲にある出雲市の荒神谷遺跡と雲南市の加茂岩倉遺跡から何点もの銅鐸がまとまって出土していた。そして松帆銅鐸が出土したあと、荒神谷遺跡の銅鐸の1つが、松帆6号銅鐸と同笵である(同じ鋳型でつくられた)ことが明らかになった。
さらに加茂岩倉遺跡の銅鐸の中からも、松帆3号銅鐸と同笵のものが見付かった。淡路王国で製作された銅鐸が、出雲に持ち込まれたのであろうか。そうすると淡路王国から淡路島西岸を通って吉備(岡山県および広島県東部)にいたる、「海の道」ができていたことになる。
銅鐸は、吉備から陸路で中国山地を越えて出雲に持ち込まれたのであろう。
松帆銅鐸のなかの2号銅鐸、4号銅鐸、6号銅鐸の3点は、同笵でつくられていた。そしてこれらの銅鐸と同笵の銅鐸が、松帆銅鐸の出土地の近くから見付かっていた。
南あわじ市の松帆地区から出土したと伝わる「中の御堂銅鐸」が3点の松帆銅鐸と同笵であったのだ。中の御堂銅鐸は、江戸時代に偶然掘り出されたものだと伝えられている。
こういったことを考え合わせると、淡路王国がらみの青銅器が、今後も見付かる可能性が高い。淡路島の南西部という意外なところに、交易で栄えた弥生時代の王国がつくられていたのだ。

