姫路城を明け渡し、鳥取攻めに参加
天正8年4月に秀吉はついに播磨を平定する。官兵衛は居城の姫路城を秀吉に引き渡し、父職隆の拠る妻鹿城に移った。西国への交通の要衝である姫路を拠点とするよう、信長が秀吉に命じたという(『信長公記』)。同年9月には官兵衛は秀吉から1万石の知行を与えられた。この時、官兵衛は35歳であった。官兵衛の立場は、織田信長が秀吉に付けた与力というものだったが、次第に秀吉の直臣化が進んでいった。
秀吉は天正9年には但馬から因幡に入り、鳥取城を攻略する。官兵衛も秀吉勢の一員として鳥取城を囲んでいる。天正10年2月下旬には、秀吉は備前から備中への侵攻を計画するが、その先陣は官兵衛と蜂須賀小六(正勝)だった。
秀吉勢は4月から5月にかけて備中の諸城を次々と落とした。そして5月8日、秀吉は備中高松城を包囲した。同城は難攻不落の名城であり、力攻めでは大きな被害が出る。特に問題だったのは、城の周囲が低湿地であったため、秀吉軍がぬかるみに足を取られ動きがとれなくなったところを城中から鉄砲で狙い撃ちされてしまうことである。
「水攻め」は官兵衛のアイデアか
そこで秀吉は水攻めを思いつく。城が低湿地に築かれていることを逆手に取り、備中高松城近くを流れる足守川を堤防で堰き止め、城を浸水させてしまおうというのである。
秀吉は官兵衛に対し速やかに堤防を築く策を求めた。官兵衛は川の流れを堰き止めるため舟を並べ、その中に大きな石を詰め、船底に穴を開けて沈めた。さらに官兵衛は近辺の家屋を解体し、竹木土石を沈んだ船に投げ入れて、瞬く間に足守川を堰き止めたので、秀吉は感心したという(『黒田家譜』巻2)。水攻めという奇策を実現するあたり、まさに「軍師」の面目躍如といったところであろう。
ただ、官兵衛に土木技術があったことを示す史料はない。牛田義文氏は『史伝蜂須賀小六正勝』において、姫路育ちの官兵衛よりも、木曽川と共に育った川並衆の蜂須賀正勝らの方が発案者としてふさわしいと主張している。
なお、秀吉の御伽衆である大村由己が著した『惟任退治記』は「秀吉工夫をなして、水責めの行をなす」とのみ記しており、官兵衛の貢献には言及していない。



