秀吉と出会ったのはいつか?

小寺政職は官兵衛の提案に対して大いに喜び、官兵衛に小寺の姓を与え、織田氏への死者として派遣した(『黒田家譜』巻1)。けれども実際には、官兵衛の父職隆もとたかの代から黒田氏は主家の苗字である「小寺」を名乗っている。

織田信長の居城に着いた官兵衛は、まず木下藤吉郎を訪ね、信長への口利きを依頼した。司馬遼太郎らの歴史小説では、この時に官兵衛と藤吉郎が意気投合した様が描かれている。ただ、この話も少々疑わしい。小和田氏が指摘するように、この時点では秀吉は播磨と全く関係を有さず、官兵衛が信長への取次役に秀吉を選んだのは不審である。隣国摂津を治める、信長の重臣である荒木村重を窓口にするのが自然だからだ。後に、秀吉が「中国方面軍司令」として播磨に乗り込んでくることから逆算して創作された話だろう。

重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)
重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)京都・高台寺蔵(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉を通じて信長に謁見した官兵衛は、中国攻略の策を披露する。播磨の情勢を語り、緒田家の重臣の一人を播磨に派遣してくれれば、小寺家が先導役になること、播磨を押さえれば、毛利氏を討伐する足がかりになることを説いた。信長は感心し、秀吉を播磨に派遣することを決め、官兵衛にその支援をするよう命じた(『黒田家譜』巻1)。

しかし、この策略の中で官兵衛は「毛利方の別所氏を討伐せよ」と述べているが、この時、別所氏は信長方である(『信長公記』)。そもそも、小和田氏が疑問を呈するように織田家の重要な戦略が決定されたはずのこの日の官兵衛の岐阜城訪問が、『信長公記』には全く見えない。官兵衛の献策じたいが、官兵衛を天才軍師として喧伝したい『黒田家譜』の創作と考えるべきだろう。

播磨攻略戦で荒木村重の捕虜に

実際に官兵衛が秀吉と親密になったのは、天正5年10月に秀吉が中国方面軍司令官として播磨に下向してからであろう。『黒田家譜』には、「秀吉既に播州に下り給ひて後、常に孝高を近づけ、諸事を相談して、事を決断し、其智謀を取り用給ふ」とある。

さらに『黒田家譜』によれば、秀吉は以前から官兵衛の評判を耳にしており、今また官兵衛を目の当たりにして、その才智・武略が優れていることを知り、ただ者ではないと見抜き、官兵衛に対して「これからは貴殿と何事も相談して助言を受けたい。兄弟のように付き合おう」と語ったという。同書は、明らかに官兵衛を「軍師」的な存在として位置づけている。

以後、官兵衛は羽柴秀吉の与力として播磨攻略戦において目覚ましい活躍を示していくが、そんな官兵衛に危機が訪れる。天正6年10月、摂津有岡城主の荒木村重が信長に反旗を翻す。周知のように官兵衛は村重に謀叛むほんを思いとどまるよう説得に向かうが、村重に捕えられてしまう。